~その21 望郷の食卓~ | 山本昭彦のブログ

~その21 望郷の食卓~

 

 

 

きみに贈る映画100選 No.042 サンダカン八番娼館・望郷 1974 東宝

 

 

女性文化史研究家の栗原小巻が、

田中絹代が演じる天草の極貧の老婆の食事を、こう記録する。

「三度の食事は米麦五分のめし

米と麦のハーフ&ハーフはビンボーめしの象徴ってことだ。

 

 

ところがきょうびの都会の定食屋なんかでは、

白いごはんか麦ごはんをお選びいただけます、なんてとこもある。

麦ごはんは食物繊維がどーたらとかで、

なにしろヘルシーでクレバーなイメージで売っている。

ただしこの場合の麦の含有率は一割ぐらいにすぎん当社比。

 

 

「望郷」を見たのは高校生のときだったが、

「映画とか漫画で描かれた食い物」に執着するガキだった私は、

それを食わせてちょーと母に頼んだ。

とりつく島も身もフタもあろうことか、ケンもほろろに拒絶された。

「あんな不味いものわざわざ食べらんでよか」

私がようやく麦含有率1割ほどの麦めしを食うことができたのは、

それから10年ほどがたち、

「映画とか漫画で描かれた食い物」に執着する大人になってからである。

我が母は正しかった。

麦含有率1割にしてかくのごとし。

田中絹代めしは、私にとっていまだにまぼろしの映画メシである。

 

 

昭和20年当時の山本家の主食も麦めしだ。

だが米麦の割合がナンボだったかなんて記録が残ってるわけがない。

しかしなんたって「うちがいちばん貧乏」ってぐらいだから、

田中絹代の麦めしとさほど変わらんレベルだったと推測できる。

そこでこの記事では、

当時の山本家の麦めしは五分五分がデフォルトだったことにする。

映画はこんなふうにも役に立つw

 

 

だが山本家に下宿した出口と伊藤には、

毎度まいど米100%の白いめしが供された。

めしの良し悪しは「死ぬる順番」の家だからな。

しかしそうすると家族の分の米が足りなくなる。

五分めしが四分六分になり七三となる。

 

 

それでも足りない分は別途購入するしかない。

しかし米は食糧統制下にある。

自由に買うことはできない。てか売ってない。

唯一の方法は闇米=やみごめを買うことだ。

どんな時代だって、

人間が生きている限り蛇の道は魚心と水心のTOKYO2022。

つまり裏ってやつがある。

食糧統制の網の目を逃れた不正規流通米を

この当時の人びとは闇米と呼んだ。

 

 

ところがこれがバカ高い。

昭和20年の東京の相場を現在の貨幣価値に換算すると、

一升およそ60000円当社比だ。

おにぎり一個ぶんが3000円。

しかもコレ、売るのも買うのも違法だから、

こんなぼったくり価格のめしを留置場覚悟で食うわけだ。

参考までに書いておくと

配給で買える米の公定価格は一升48銭=当社比1200円だった。

 

 

出口の前に膳が用意される。

給仕するのは恵美子と母。

島のことだから主菜は海のもの畑のものに限られる。

顔見知りの漁師に頼んで分けてもらった

イサキとかアジとかの煮付だったり塩焼だったり、

すぐ腐るので市場に出せない小イカの墨煮だったり、

カマスやサヨリや小アジやホオタレの干物だったり、

彼女たちが磯で拾ってくるニイナと呼ぶ巻貝の塩ゆでとか、

佐伯ではボッコと呼ぶ里芋の煮たのがあったりなかったり、

味噌汁の実はアオサだったりアオサだったりアオサだったり、

ただしダシをとったイリコもそのまま入っている。

時にはボラの琉球なども出たかもしれん。

 

 

琉球とはヅケのことだ。

魚の切り身を醤油や味醂や酒で造ったタレに漬けておく。

博多の「ごまさば」みたいなやつ。

冷蔵庫がない時代の、魚の保存法のひとつと言える。

大分県の沿岸部である佐伯の郷土料理としては妙な名だが、

そもそもは鹿児島以南の漁師たちが考案したものらしい。

海はそういう文化もつないでいた、ということなのだろう。

もっとも、この時期の山本家の台所に、

酒や味醂の余裕があったとはとても考えられないが、

味噌は家で作っていたから、その上澄みで醤油はまかなえた。

季節は夏だ。紫蘇でも揉み込めばいい塩梅になったろう。

 

 

言っちゃなんだがね。

牛肉だろうが鯨肉だろうが、缶詰なんか足元にも及ばんよ。

しかも艦内の食事は、夜食以外は早食い競争だ。

ここではゆっくり食っていい。

しかもそれをはたちの美人の恵美子の給仕で食うんだぜ。

恵美子の横でニコニコしながら

「ようけお食べんさい」とお替りを勧めるのは、

出口や伊藤にとっては実母と同じ年代のおかーちゃんだ。

所属部隊の名は特攻戦隊となった。

二度と故郷に会える望みのない彼らにとって、

それはおそらく、生涯で二番目にうまいめしだった。

 

 

出口や伊藤がそういうめしを食う座敷の手前の部屋で、

桂佑や亮は「さつま」をおかずに四分六分の麦めしを食う。

琉球のつぎは薩摩かよ?

うーんこれ以上はグルメ記事っぽくなりそうなので、

それはまた次回かいつか。