伝説 ~第102号哨戒艇その12~ | 山本昭彦のブログ

伝説 ~第102号哨戒艇その12~

 

 

 

出口の配置ではふたり死んだ。

 

左の座席で銃身の仰角と射撃を担当していた兵は

仰角を変えるためのハンドルにもたれかかって絶命していた。

側頭部が無残に損壊している。

機銃弾の直撃を受ければ人間の頭なんか簡単に吹っ飛ぶ。

側頭部の損壊で済んだのは跳弾によるものかもしれない。

そうだ。

弾丸がダイレクトに命中しなくったって、

ふねのどこかに中って跳ね返った弾でも人間は死ぬ。

かすっただけでも肉をえぐる。

 

 

出口たちの配置は第一煙突と第二煙突の中間にあった。

煙突の中を通るのは機関部から排出される熱煙だ。

戦闘で速度を上げると煙突の外板は触れないぐらい熱くなる。

その第二煙突の外板が黒く汚れている。

ぶちまけられた血が乾き、

その中に何かの塊がこびりついている。

それは射撃員の頭から吹っ飛ばされた脳みそだった。

 

 

弾倉の交換員だった若い水兵は、

平常勤務では電信員=無線係を務めていたが

戦闘配置で出口の指揮下に置かれていた。

彼は自分の血でできた水たまりの中に沈んでいた。

出口が抱え起こすと胸に穴が開いていた。

それは出口のこぶしがすっぽり入るほどの大きさだった。

血で黒く汚れたその穴から向こう側が見えたという。

ピストルの弾が貫通してもこんなふうにはならない。

威力が違う。

カタリナの機関銃は敵機を撃墜するための兵器だ。

命中したのが人間の柔らかい肉体なら、

弾丸の直径の10倍の大きさの穴を開けるってことだ。

 

 

102号自体も、沈没の危険があるほどではないが損傷を受けた。

だけどそれをここで詳しく述べてもしゃーない。

この戦闘についての記述はこれで終わる。

 

 

 

昭和19年8月24日。

102号はフィリピン・ルソン島の西方洋上で米潜水艦を撃沈した。

それは米海軍の中で屈指の戦歴を有するエース、ハーダーだった。

「この話は事実ですか?」

 

 

私の質問に、出口さんは即答した。

この時の彼のひとことが、今回の記事の前半を書く私を作った。

「わかりません」

ことばには温度がある。冷たい言い方。熱い叫び。

出口さんのそれは体温の「わかりません」だった。

 

 

 

いろんなところで爆雷を落としましたよ。

その時は夢中なんです。

敵の潜水艦を沈めたかどうかなんて、

艇長や水雷長はどうか知りませんけど、

私たち兵隊に、それを気にする余裕なんかなかった。

海と空のほかには何も見えないんです。

そんな場所で殺すか殺されるかですよ。

そういう命のやり取りをしてたんです。

 

 

映画やゲームではないのだ。

そう言われた気がした。

紺碧の海。まわりには何もない。

わずかに太陽だけがゆっくり位置を変えるだけで、

西も東もすぐにはわからない。

そういう場所で死ぬ。殺される。

爆発に体を引き裂かれるのか。

海に落ちて溺死するのかサメに食われるのか。

それとも漂流して飢えて死ぬのか。

それがいやなら相手を殺すしかない。生き残るためだ。

敵艦撃沈という戦果などは、

その「ついで」にすぎないのかもしれない。

そんなことを思っていた私の前で出口さんは続けた。

私に対して、というより、それは独り言のような口調だった。

 

 

爆雷を落とすときは全速です。

爆発地点からできるだけ早く移動しなきゃならんのです。

爆圧で自分の推進機をやられますから。

だけど直線で離脱すると敵から離れてしまうので旋回するんです。

ふねがグッと傾く。ほとんど横倒しみたいな感覚ですよ。

しかも全速だとすごい風圧なんです。

何かにつかまっていなきゃ振り落とされる。

ああ、ここで海に落ちたら助からんなあ。

どうせなら陸軍に入っとけば良かったなあ。

そんなことを考えてました。

 

 

「わからない」という回答は想定していた。

潜水艦との戦闘は「見えない敵」との戦いだ。

仮に敵に損害を与えたとしても、

潜水艦は海中で被弾して沈没するのだから、

それを海上から視認することはできない。

やがて海面に油が浮いてきたら、それで撃沈確実と判断する。

だけどそれだって、

潜水艦が死んだふりをするために放出した燃料だったりする。

その意味で「わからない」という回答は、

物理的にというか形而上はというか、

現場にいた当事者にとってはありのままの認識だと言える。

しかし出口さんの「わかりません」には、

なにか別の、人間の血がかよった成分が含まれている気がした。

 

 

それが何でしょう?どうでもいいことです。

何度もなんども殺し合いをして、ある者は死に、私は生き残った。

その事実にくらべれば戦艦が沈んだとか空母を沈めたとか、

それにどれほどの意味があるんでしょうか。

出口さんの「わかりません」を私はそのように聞いた。

大久保の大ボラは間違いなく確信犯。

ランゲンバーグ氏の思い込みはおそらく未必の故意。

だがどちらにしても、

私がその事実を究明する価値なぞ1ミリグラムもないことではないか。

戦争に向き合うなら、

その時そこで生きていた人びとの心と生命とに向き合うべきなのだ。

ハーダー撃沈説はもういい。

もうどうでもいい。

私はその時点で、この疑惑に関する興味をまったく失った。

 

 

出口さんは最後にこう言った。

そのときの彼は、私のほうを見てはいなかった。

 

 

爆雷を落とすとね、ものすごく大きな水柱が上がるんです。

いくつもいくつもね。

きれいなものですよ。すさまじい美しさでした。

あればかりはね、

いま思っても、まるで夢の中の出来事のようです。

 

 

夢の中ではない。

彼は確かに、生きて、その目で、それを見ていたのだ。

 

 

 

 

 

伝説 ~第102号哨戒艇~「第一部 戦場篇」おわり。

そんなサブタイトルあったんかい。いまつけた。