海軍残酷物語 | 山本昭彦のブログ

海軍残酷物語

 

 

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アルキばなし第7回。

 

 

「友鶴」の転覆事故に衝撃を受けた海軍は、

藤本が設計したふねの復元性能を再検証することになった。

復元力とかGM値とか専門用語を並べてもしゃーないんだが、

やっぱ復元力だけは、この単語を使わないと文章が作れない。

ふねが傾くでしょ? そしたら次は元の姿勢に戻ろうとするでしょ?

起き上がりこぼしみたいな感じ。これが復元力。

 

 

船乗りは復元力を信じてふねに乗る。

たとえば船に乗った経験のない者が漁船とかで外海に出ると、

大波の上で木の葉のように揺れる船に恐怖を感じることになる。

なにせ60度とか傾くからね。

何かにつかまっていないと立ってられないし、

そんだけ傾けば目の前に波の壁がドーンと見えるから視覚的にも怖い。

ヤバくないですか?沈没しませんか?この海にサメはいませんよね?

そういう気分になる。

彼にとって幸いなのは、

すぐにゲロゲロが始まって、それどころではなくなることだw

 

 

しかし船乗りたちは船体がどれだけ傾いても涼しい顔だ。

その理由は、

「船というものはどれだけ傾いても必ず復元するように作ってある」

という大前提があるからだ。

言い換えれば、設計に対する信頼があって初めて、

船乗りや軍艦乗りは大海原へ出てゆくことができる、ということだ。

友鶴事件は、海軍に物的な被害の危険性を示しただけではなく、

海軍の全将兵に、不安や恐怖という精神的な被害をもたらしたことになる。

軍艦の乗組員が、ふねが大きく傾くたびに「サメはいますかね?」では、

戦争どころではなくってしまうだろう。

 

 

改善計画の指揮にあたった平賀は大胆な手法をとった。

藤本設計の欠陥である復元力の弱さは、つまり重心が高いってことだ。

その根本原因が過度の重武装であることは明白だった。

それならば武装を減らせばいい。

しかしそうすれば戦闘力が目に見えて衰える。

平賀は武装の削減を最小限に抑えるために、

艦橋などの上部構造物を縮小して重心を下げた上で、

ふねの底にオモリを積むという、めちゃ単純な方法を指示した。

 

 

初春型駆逐艦のビフォーアフター。写真では前方の艦砲が削減されているのが目を引くが、

外された砲は後部甲板に移設されており砲撃力は衰えていない。平賀のバランス感覚の賜物だ。

見た目にはアフターのほうがダイエットしているが、オモリのために体重は増えている。

 

 

オモリのことを船の用語でバラストという。

俺、これってバランス・ウエイトの短縮形だと思ってたのね。

そしたらそうじゃなかった。

ドイツ語で「無駄なもの」という意味を持つんだってさ。

今回初めて知った。

 

 

藤本は船体そのものをできるだけ軽く作るために苦労した。

それによって生じた不具合を解消するために今度はオモリを積むのか?

まさしく無駄。なんという皮肉。

それならエンジンをでかくするとか、船体を補強するとか、

「役に立つ部分」で重たくすればいいじゃんと誰でも思う。

だが抜本的な船体の改造をやろうとすれば時間がかかりすぎる。

設計のやり直しと大掛かりな改造工事のあいだ、

下手をすれば数年の間、日本の海軍力は半減する。

日本中のドックを総動員するから新造艦の建造も不可能になる。

短期間のうちに問題を解決するには荒療治しかなかった。

改善は事実上の改悪となった。

そしてそれに対する非難は、挙げて藤本ひとりに向けられた。

 

 

どん底の藤本に、さらに追い打ちがかかる。

友鶴事件の9か月後。1933年の12月下旬。

日本は軍縮条約からの脱退を宣言する。

軍縮条約は海軍が保有するふねの総トン数も制限していた。

だから「数を揃えるために」、

一隻あたりの大きさは「できるだけ小さな船体」が求められた。

これからはそれを気にしなくて良くなる。

無理な設計をする必要はなくなり、性能はさらに向上するだろう。

造船官たちは歓喜をもって新年を迎えた。

ただひとりを除いては、だ。

 

 

藤本は思っただろう。

「ちょっと待てや!じゃあ俺がやらされてきたことは何だったわけ?」

穴のどん底にいる自分に水をぶっかけられたような気分。

それまで彼を支持し賞賛し、あるいは煽ってきた者たちが、

友鶴転覆には無関係のフリを決め込み、

今は制限撤廃・自由設計時代の到来に大歓声をあげている。

設計バカだった自分ひとりだけが、今こうして身体はうずくまり、

精神は屈辱と自責と運命への怨蹉にのたうち回っている。

 

 

それでも何らかの,、むしろ困難な仕事が与えられていれば、

それに向き合うことで藤本はプライドの火種を残し得たかもしれない。

だが閑職に飛ばされた彼にそんな機会はありえなかった。

しかも年末年始だ。形ばかりの出勤も必要なくなる。

かなり飲んだらしい。

1934年1月9日。

軍縮条約脱退が閣議で決定されてからわずか19日後。

藤本は高血圧による血管破裂でこの世を去る。

高血圧はもともとの持病だったから、

あるいは覚悟の上での大酒であったかもしれない。

享年47。

見ようによっては、彼が身命を捧げた海軍に殺されたとも言える。

 

 こんな気分な。弁護や同情の代わりだ。

 

 

 

空手バカ一代は、実在した空手家・大山倍達=ますたつの半生を描いた

梶原一騎原作の劇画である。

大山は実戦にもウルトラ強かったが、彼の有名な試技がビン切りだ。

空手チョップでビール瓶の首をちょん切るのさ。

きみの手の平の脇腹をむにむにっとつまんでみ。

柔らかいやろ?こんなんでビール瓶を切断できるわけないと思うやろ?

だが人間の肉体も、パワーとタイミングで凶器になり得るってことだ。

自然も同じだ。そよ風もさざ波も、荒れ狂えば凶器になる。

 

 

その死から1年もたたぬうちに、

人びとは藤本喜久雄の名を苦い思いと共に再び意識する。

1934年9月。

演習中の連合艦隊第4艦隊が大型台風に巻き込まれた。

駆逐艦2隻が大破。

それ以外のすべての艦艇が大中小の被害を受けた。

「第四艦隊事件」である。

 

 

大破した駆逐艦2隻は「特型」と呼ばれる同型艦だ。

特型は藤本の手腕を最初に示した彼の出世作だと言える。

2隻の具体的な被害は、ともに艦首切断。

鋼鉄で作られた軍艦の首がぶった切られて飛んだのだ。

凶器は波だ。

三角波と呼ばれる海水の巨大な塊が連続して船体を打った。

その強大な圧力と衝撃に、

軽量化によって強度が不足していた船体は耐えることができなかった。

 

 

そのほかの艦艇の被害をいちいち詳述はしないが、

艦橋などの上部構造物が押しつぶされたとか、

どっかがもぎ取られて失われたとか、そりゃーもう大惨事。

あの妙高型もこの艦隊に属しており無傷では済まなかった。

その被害は 「船体の接合部の鋲の一部にゆるみが発生」

 

 

そんだけかい!

調査にあたった者は嘆息とともに天を仰いだのではないか?

平賀設計と藤本設計は、ここでも歴然たる差を見せたのだ。

特型と妙高型ではそもそもサイズが違うが、

妙高型と同じサイズで藤本設計の「最上=もがみ型」は、

やはり艦首部分に大きな皺=あとちょいで裂け目を発生させている。

 

最上型  日本の軍艦のデザインの中でこれがいちばん好きだ。

名前からしてBESTだしなw

最上が完成した時の試験航海は当たり前の気象条件下で行われたが、

それでも船体前方にゆがみが生じて、砲塔が回らなくなったという。

 

 

いつになく私としては必要以上に知識をひけらかしているけどね。

これも全部「アルキ」につながるんだ。それは次回以降。

それと、今回のタイトルを見た瞬間に、

「ああ、やっぱり八甲田山まで行かないんだ」と気づいたなら、

うむ、きみはえらい。よくぞ見抜いたwww