鳳凰とカモとサギ | 山本昭彦のブログ

鳳凰とカモとサギ

 

 

なーんだ、そういうことか!

 

2009年の中国映画 「孔子の教え」。

前回に引き続きこの作品を採り上げる。

この映画は難解だ。理解し楽しむためにはちょっと予備知識がいる。

今日はそれを解説するおせっかい。ネタバレはしない。

 

この記事を書くためには、作品中の何箇所かを確認する必要があった。

なのであらためて映画を見た。

今回は近くのゲオで借りたんだが、やっぱ照れくさかったわ。

以前鑑賞したときにはスルーしたオマケの予告編も、今回は見た。

そこで初めて、このいかにもヤル気のない邦題の理由が解った。

この記事の後半ではそれも述べる。

 

 

物語の時代背景。

これは春秋時代の末期。BC5世紀あたりらしいが数字はどうでもいい。

春秋時代じたいは夏殷周の次。

ただし、周が滅んで春秋時代になったわけじゃない。これ大事。

春秋時代にも周はちゃんと存在している。

この映画を、つまり孔子を理解するには、

まずこの周という国を知る必要がある。 

 

周を建国したのが武王。この人に弟がいた。名は旦(たん)。

歴史上の通り名を周公旦(しゅうこう たん)という。

この周公が孔子ばなしのキーマンだ。

 

武王が早世し、弟の周公が若い新王を補佐して政務を執った。

周は建国して間もない。国はまだまだ安定していない。

だから周公の政策コンセプトの第一は、王朝の権威の確立だ。

 

周公は、社会のあらゆる上下関係に関するルールを定めた。

お辞儀の仕方まで厳密にマニュアル化した。

上下関係のルールを守ることこそが正義。

このコモンセンスを徹底させることによって

周王を頂点とする社会秩序を堅牢に固定化しようとした。

勘違いしないでよ。これはカーストや士農工商とは違う。

上下関係の中には、上の下に対する礼儀、上が下に施す恩恵も含まれている。

いやー、政治家の鑑だわ旦ちゃん。

その結果、周ではそれから数十年のあいだ

「牢屋が空っぽになった」 と書き残されるほどの社会の安定を見た。

 

しかし興った国は必ず衰微する。古今東西、国家がたどる道はみな同じだ。

やがて内輪もめやアホな王のせいで、周の国力は次第に衰えていく。

逆に、地方には周をしのぐ実力を持った国が台頭し、

中国大陸は、多くの地方政権が事実上の独立国として分立した状態となる。

それが春秋という時代だ。

周の、宗主国としての名目格式だけは残っている。

トップが王を名乗れるのも周だけだ。

だがそれは 「腐っても鯛」 というだけのこと。誰も食わん。見向きもしない。

 

国家が落ちぶれ果てて、誰からも尊敬されなくなって、

それでもオピニオン・リーダーとしての影響力だけは残る、なんてことはありえない。

周公が定めたルールは誰からも忘れられる。

多くの国で、下克上・やったもん勝ち・陰謀・詐欺・不倫乱淫が横行するようになる。

周公の時代から時は流れて500年。

孔子はそのような時代に生まれ、そのような時代を目の当たりにして育ち、

やがて祖国魯で官途に就く。

 

ここから映画の参考書的な記述になるが、もう一度確認しておこう。

魯国などの春秋各国、そのトップは王を名乗れない。王は天下に周王だけ。

地方政権のトップは 「公」 という称号。これも周から与えられる。

 

映画の時代、孔子が仕えた魯公は定公

しかし政治の実権は、三桓(さんかん)という勢力に握られていた。

これは、江戸時代の御三家や御三卿と同じ。

魯の桓公の息子3人の子孫。だから三桓。どや、これで憶えたろ?

 

三桓の中で最も権勢があったのが季孫氏。

馴染みにくいよなあ、こういう名前とか苗字。

季という漢字は末っ子を意味する。桓公の末っ子の子孫だから季孫氏なんだ。

どや、これで憶えたろ?

 

TK曹操チェン・ジェンビンが演ずる季孫斯は、このとき魯の首相代理 兼 大蔵大臣。

大物だ。だから映画でも国会みたいな場を仕切ってる。

 

時代は春秋だ。秦の始皇帝のはるか前だ。

このころにはまだ、中央集権・官僚支配型の政治形態は誕生していない。

どの国にも、さまざまな出自や形態の実力者集団が存在して政治に関与する。

季孫氏のような大物には、トップである公ですらかなわない。

事実、定公の父、先代の昭公は、

三桓の排除を試みて失敗し、魯公の座を追われ国外に追放されている。

だから定公にとっては、季孫斯は父の仇も同然のはず。

だけど逆らえない。定公をその地位につけたのもまた季孫氏だから。

そういう人間関係・力関係を知っておくと、この映画は面白くなる。

 

さて、孔子。

彼は今でこそ論語の原作者、儒教の祖として知られているが、

在世中の彼は思想家でもなければ宗教家でもない。政治家だ。

目指したのは周公の政治。

周のコモンセンスで国家を経営すること。

それが国を豊かにし、強くし、そして安定させると孔子は説いた。

魯でそれを実現するためには、国政を壟断する三桓を政治から遠ざける必要がある。

ひと筋縄じゃいかないさ。だからドラマになる。

映画の前半は、孔子のこの戦いを軸に進む。

 

孔子は自宅にたくさんの弟子を養っている。

自宅が学問所だ。彼はそこで弟子たちに教えを垂れ、周礼を実践させている。

くどいようだが孔子はイエスでも釈迦でもない。

そこで弟子たちが学んでいたのは国家経営学

だからそこは、どっちかいうと松下村塾。

事実、彼の弟子は、地方の知事や市長として、あるいは軍隊の指揮官として、

政治の現場に乞われて参画している。

もし孔子の教えが、その学問が、観念的な道徳や倫理や哲学に終始していたなら、

知事だの司令官だのといった、現実の政治に即応できる人材が育つわけがない。

そういう弟子たちの姿も、映画の随所で描かれている。

 

国家は経済的軍事的に強くなければ維持できず、

そのためには民力が高くなければならず、

その民衆は支配者に忠実でなければならず、

逆に、支配者は民衆の支持を得られるだけの善政を敷かねばならない。

いわば上昇のスパイラル。孔子が目指していたのはそこ。

魯の国を、周公時代の周のように、安定した強い国にすることが彼の理想。
 

念を押すが、孔子は宗教の教祖ではないし、

思想家と呼ばれるのは、

現実の社会が彼を受容しなかった結果としてそうなってしまっただけ。

この映画はあくまでも、

ひとりの政治的理想を追求した男の物語として受け止めねばならない。 

そういう孔子の気概が感じられる脚本であり役者だからこそ、

この映画はスケールのでかい娯楽作品に仕上がっている。

 

ところが 「孔子の教え」 という邦題は、いかにも宗教的だ。

後世の人々は私を誤解するだろうと自嘲した孔子の言葉が、

そのまま現実となった象徴的なタイトルだ。

予告編の字幕にこうある。

「師を持たぬ現代人に贈る」 

おいおい!この映画は自分探し系スピリチュアルか?

 

わからなくもない。

日本人の多くは、孔子や儒教をそのようなものだと認識している。

たとえばイジメ問題を語るとき、

私たちは個人の人権、尊厳、良心について熱く語る。

そこで多くの日本人が規範としている道徳や仁愛の根底には儒教倫理がある。

しかし、イジメ問題を次のように語るものはそう多くない。

「これは日本という国家の存亡に関わる問題だ」

「イジメを看過する社会は、もはや日本ではない」

孔子の視点はまさにここにある。

道徳も仁愛も、論語のすべては国家経営につながっている。

しかし、儒教や論語を

「美しい生き方マニュアル」 ぐらいにしか思ってない奴が考えると、

こういうタイトルになる。

 

予告編ってやつは詐欺であることが多いものだが、

この映画の予告編やタイトルは、本当は面白くて楽しめる映画を、

「あ、俺こういうのパス」 と思わせてしまうような逆詐欺になってしまってる。

DVDには日本版予告編と、海外版予告編が収録されていた。

海外版のほうは素直に、歴史スペクタクル娯楽巨編として紹介しているのだが、

日本版はどうみても日本儒教振興会推薦映画である。

 

極めつけは、予告編で孔子があたかも平和主義者のように語られていることだ。

あのね、孔子は上杉謙信または桃太郎侍。

損得抜きに、悪いやつはやっつけろという、むしろ武断派。

史実の彼は、魯公に幾度も戦争をけしかけている。

世の中におもねった予告編の、これは見本と言っていい。

しかも媚びておもねった挙句が大コケだ。とんだお笑いだな。

 

「男たちの挽歌」 に感謝したい。

マークが主演でなければ、私はこの映画をおそらく見ていない。