2年次後期から必修となるゼミの選択について,4月5日,教務チームによるガイダンスの後,ゼミナール協議会主催の個別説明会がありました。雨模様だったせいか,若干,学生の集まりが悪かった感じです。わがゼミのブースへの訪問者も,昨年より少なかったように思います(ということは,何?また三次募集か?面倒やな)。

 

 大学におけるゼミの選択は,学生が考えている以上に重要です。ブース説明会で配った資料の表紙に書きました。

 

 「大学なんてゼミがすべて~君は,誰と,何を,どのように学ぶか」

 

 「楽勝」「タイパ」を基準にゼミを選んでいる時点で,大学生活は終わっています。でも,ただ単に大学生活を左右する選択というだけではありません。ゼミの選択は,人生というスパンでも,きわめて重要な決断になるように思います。本学の学生のほとんどは,まったく自覚していないでしょうが,世の中には,そう考える人が多いようです。

 

 『日本経済新聞』今月の「私の履歴書」は,日本製鉄名誉会長の三村明夫氏。群馬・前橋出身の財界の大物です。先日は,学生時代がテーマとなっていて,東京大学経済学部・小宮隆太郎ゼミについて語られていました。4月8日の同紙「交遊抄」は,JX石油開発社長の中原俊也氏でしたが,あの限られたスペースの中で紹介されていたのが,一橋大学商学部・伊丹敬之ゼミの同期生でした。

 

 ずいぶん前の日経新聞文化欄では,作家の沢木耕太郎氏が「最初の人」と題するエッセイで,恩師・長洲一二氏の追悼として,ゼミを選択したときのエピソードを紹介していました(『日本経済新聞』1999年6月27日付)。選抜に漏れ,入ゼミがかなわなかったものの,その後,ゼミに入れてもらったときの,あの話です。

 

 この件は,本ブログでも取り上げたことがあったと思いますし,ゼミのオリエンテーションなどでも話したことがあります。非常に心に沁みるエッセイで,つい最近まで,沢木氏の母校・横浜国立大学のホームページ上でも掲載されていました。

 

 入ゼミ時のエピソード。しばしやりとりがあったあとの長洲氏の沢木氏に対する言葉。「私のゼミに入ってくれますか?」この言葉をあらためて考えることがテーマのエッセイでした。

 

 沢木氏は書いています。

 

 ひととおり経緯を聞いた先生は,ゼミに「入れてやろう」でも,「入りなさい」でもない,「入ってくれますか」と言った。なぜ,そう言ったのか,今でもわからない。

 

 でも,この「言葉の底には,君は何者かでありうる,というメッセージが存在するように思えた。」

 

 「そのようなメッセージを発してくれた『大人』は先生が初めてだった」。

 

 「もしかしたら,私は二十歳からの困難な数年を,先生の言葉ひとつを支えに切り抜けていったのかもしれない」。

 

 そして,こう締めくくっています。

 

 「教師が教え子に,あるいは『大人』が『若者』に,真に与えられるものがあるとすれば,それは『君は何者かになりうるんだよ』というメッセージだけではないだろうか」。

 

 先月末,神戸市東灘区の御影公会堂に,京都大学経済学部・本山美彦ゼミの卒業生が20名ほど集まりました。久しぶりに対面で行われる「土と大豆」という先生の講演を聴くためです。

 

 立教大学,桃山学院大学,福岡大学,中部大学,京都産業大学,京都大学など,様々な大学の研究者のみならず,中央省庁や自治体の職員,メーカー,金融・保険関係,不動産,マスコミ,そして医者,弁護士に至るまで,年齢も職種も様々な人間が集まり,先生の話に耳を傾け,コメントを発し,先生とやりとりし,その後,酒を酌み交わしました。非常に幸せな時間でした。

 

 そして,これも学生によく聞かせる話。卒業論文集の挨拶文でも取り上げる船曳建夫氏のゼミ論です(有斐閣の『書斎の窓』で連載された後,同社より2003年,『大学のエスノグラフィティ』として発刊)。

 

 船曳氏によれば,「ゼミこそがもっとも大学らしい知の形式」である。ゼミを通して得た仲間は,仕事にとって,人生にとって,生涯「批判する同伴者」となり,一生を通じて,成長する過程,プロセスを共有することになる。ゼミで醸成された信頼の中で永遠に問答をやりとりすることになる。

 

 こうした意味で,「先生はいなくてもゼミは続く」。「ゼミは時間に耐える堅固なプロセスになりうる」。「ゼミとは,大学のある時期,ある教室,という特定の時間と場所にあるのではなく,持続するバーチャルな時空を生きていくもの」。これが船曳氏の見立てです。

 

 以上,まとめます。

 

 大学における「ゼミの選択」は,人生においてきわめて重要な決断になりえる。心して向き合え。