立民・国民・社民が「毒饅頭」に手を出してしまいました。閣議決定された新型インフルエンザ等対策特別措置法改正を承認してしまったのです。特措法改正は、安倍政権の強行採決ではなく、野党の承認を得て、実現してしまいました。特措法改正という結果は同じでも、日本の民主主義にとって持つ意味はずいぶん違ってくるような気がします。 新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない中、反対ばかりもしていられない、絶対止めなきゃいけないと思ったか、元の法律は民主党時代に制定したものだから、後ろめたさがあったのか、最終的にはどうせ数で押し切られるとあきらめたのか、とにもかくにも立国社の三民は、特措法改正を承認しました。「野党」として、ここは踏ん張りどころだったように思いますので、非常に残念です。 「付帯決議」として「国会への事前報告」を盛り込めた、これで「国会による監視」が可能になった、という認識らしいですが、付帯決議に法的拘束力はありません。どうせ法改正をするなら、野党が当初から主張していたように、「歯止め」としての「国会の事前承認」を条文に書き込むことに最後までこだわってほしかったですね。付帯決議として「国会への事前報告」を「勝ち取った」からと妥協していたのでは、野党としての姿勢が問われます。ここは最後まで政権に対峙してほしかったところです。 事ここに至っては、今回の事態が、ナチスによる全権委任法(「民族および帝国の困難を除去するための法律」)制定後のドイツのような状況をもたらさないよう、権力の監視を続けなくてはなりません。惨事便乗型のファシズムには、注意してもしすぎることはありませんから。 野党を巻き込みながら特措法改正を実現させ、緊急事態宣言という手段を得た安倍首相は、実際に宣言を行うでしょうか。もちろん、そう簡単にはいかないでしょう。それでも、サクラ問題、初動対応の遅れ、悪手の連続(口の悪い論者は「錯乱」とまで言う!)を批判されるなか、「やってる感」を打ち出したい、そして首相在任中に憲法改正への道筋をつけたい安倍首相のことですから、期間と地域を限定しながら宣言を出し、緊急事態宣言の実績づくり=既成事実化を図るような気がします。ここへきてWHOが「パンデミック」宣言を出したことも、それを後押しするのではないでしょうか。まさに「緊急事態」だと。ど素人の邪推かもしれませんし、単なる杞憂だったと、あとで振り返りたいですが、「ありえない」と断言できる「専門家」はいるでしょうか。 邪推ついでにもう少し。緊急事態が宣言されるのは、時期としては、ここ「1か月前後」のうちに、地域としては、「東京」はなく「北海道」か「大阪」。素人のオッサンはこう邪推しています。それはなぜか。「研究室だより」の賢明なる読者諸氏には、オッサンの考える程度のことは、おそらくお分かりいただけると思います。ど素人の邪推ですから、外れる可能性大です。まあ、読み流していただいて結構ですが、惨事に便乗する権力者の行動には、注意するに越したことはありません。 「専門家」と言えば、東日本大震災時の原発爆発、放射能汚染の際、テレビに登場していた「専門家」よりは、私、今回の「専門家」のほうが頑張っているという印象を持っていました。でもどうやら、そういう人ばかりではなさそう、フクイチ爆発後の専門家と大差なさそう、という気がしている今日この頃です。特に、新型コロナ対策の「専門家会議」のメンバーにそんな印象を持っています。 この間、そのコメントに一目を置いてきた一人が医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏です。素人の私は、「専門家会議」メンバーの、奥歯にモノの挟まったような、どこかに隠し事があるんじゃないかと思わせるような言い方に違和感を抱いていたのですが、上氏の指摘には、いつもなるほどと納得してきました。 その彼が「帝国陸海軍の「亡霊」が支配する新型コロナ「専門家会議」に物申す」(上・下)という論文を新潮社の有料サイト「フォーサイト」に掲載したようです。私は未読ですが、感染症に対する国家総動員体制を作ろうとしている「専門家会議」の胡散臭さの奥底には、専門家会議メンバーの所属機関が旧日本軍から引き継ぐ組織体質があるとの指摘です。専門家会議メンバーの出自を、「国立感染研究所」「東京大学医科学研究所」「国立国際医療研究センター」「東京慈恵会医科大学」に類型化し、それぞれの機関が帝国陸海軍の戦時医療=731部隊体制と関わってきた歴史を紐解き、現在の状況に切り込んでいるようです(私が定期的に閲覧しているサイト「ネチズンカレッジ」で加藤哲郎氏が3月12日付で紹介していますので、ご参照ください。加藤氏の近著『731部隊と戦後日本―隠蔽と覚醒の情報戦』花伝社、2018年も重要です)。 上記のとおり、WHOがこのタイミングで、新型コロナウィルスの世界的蔓延に対し、事実上のパンデミック宣言をしました。中国が感染拡大をほぼ抑えたとされる一方、イタリアでは感染者が毎日拡大し、ついには全国規模で人の移動が制限され、医薬品店、食料品店を除き、一般の店舗も一時閉鎖される事態に発展しています。検査体制が整わない(整えようとしない?)今、日本で実際にどの程度感染者が広がっているのかは定かではありませんが、医療崩壊とも言えるイタリアの状況が深刻なのは確かなようです。 中国に近づきすぎて、人の交流が進んだことが原因だとか、『レオン』「チョイ悪オヤジ」のモデルをイメージしながらなのか、イタリア人はすぐにハグするし、キスするし、感染が広がって当然だとかという論調まであります。全否定はできないかもしれませんが、一番注目しなくてはならないのは、やはり「経済」です。 欧州危機以後、緊縮財政を求められたイタリアは、過去5年間だけで、約760の医療機関が閉鎖され、医師が約5万6000人、看護師約5万人が不足しており、この状況で新型コロナウィルスの感染が拡大し、医療崩壊につながっているというのが真実のようです。フランス『レゼコー紙』の記事を時事ドットコムニュース(3月9日配信)やテレビ朝日の報道ステーション(3月10日放映)が報じています。 デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス著/橘明美ほか訳『経済政策で人は死ぬか―公衆衛生学から見た不況対策』(草思社、2014年)という興味深い本があります。世界恐慌後のアメリカ、ソ連崩壊後のロシア、アジア通貨危機後の東アジア各国、欧州危機後のヨーロッパなどを事例に、「経済政策によって、まさに人が死ぬ」ということを明らかにしています。 経済危機後の緊縮財政、国民皆保険制度の未整備、医療費削減による病気の蔓延などを具体的に論じているわけですが、現在のイタリアにおけるパンデミック、それに伴う医療崩壊も、誤った経済政策にその原因が求められるべきなのです。中国に近づいたことも、緊縮財政下、中国との関係強化によって経済のテコ入れを図らざるを得なかったという事情を勘案する必要があります。感染症対策という安全保障にも、経済がきわめて重要です。 今秋、大統領選挙が行われるアメリカは、民主党の候補選びが行われています。現在では「中道派」バイデン、「左派」サンダースの一騎打ちになっていますが、激戦を受け、各地で行われる大規模な党員集会によって新型コロナウィルスの感染拡大につながる恐れが指摘されています。トランプ大統領は感染防止に自信を持っているようですが、このほかの要因も絡み、感染は拡大するでしょう。最大の原因は、アメリカに国民皆保険制度が整っていないことです。 国民皆保険制度がないアメリカでは、国民は簡単には病院に行けず、一端蔓延すれば、その勢いはなかなか止められないのではないでしょうか。アメリカでは現在、約2750万人が無保険状態と言われています。医者に行けば高額の医療費がかかります。新型コロナに感染しても、発症を隠して働き続ける人もいるでしょう(時事ドットコムニュース、2020年3月12日配信)。未曽有の経済格差が医療格差につながり、感染症の拡大を現実のものとしつつあります。国民皆保険制度という、先進資本主義なら標準装備の制度が整っていないことがアメリカ国民にとっては、(メキシコからの不法移民以上に)安全保障上の脅威のはずです。ところがアメリカでは、国民皆保険制度は社会主義的で、非現実的とされがちです。 激戦とされた民主党大統領候補争いも、現在は「中道派」の結束によってバイデン有利の情勢ですが、バイデンが「中道派」、サンダースが「左派」と分類されてしまうところがアメリカの「悲劇」です。先進資本主義の標準からすれば、バイデンは「保守」、サンダースが「中道」ということになるでしょう。サンダースが「民主社会主義者」と自称するのでややこしいのですが、彼の政策のほとんどは、「社会民主主義的」伝統に則るものです。先進資本主義国が資本主義の枠内で実現・実施してきたような政策ばかりです。 感染症拡大を目前に、サンダースが「だからこそ、国民皆保険制度を」と訴えれば、少しは流れが変わるかもしれない。トランプにも勝てるかもしれない。そんなことも考えていますね。いずれにせよ、今日も手洗いに努め、食事と睡眠をしっかりとり、免疫力をせいぜい高める生活をします。還暦前のオッサンが個人的にできる自衛手段はこんなもんです。もちろん、スクワット、腕立て伏せ、腹筋、そして徒歩通勤は毎日続けています。【最近いただいた本】☆大津健登『グローバリゼーション下の韓国資本主義』大月書店、2019年、7000円; 冷戦体制下の工業化から現在のFTAまで、様々な論者のNIES論、韓国資本主義論争をふまえた韓国資本主義発達史研究。現在に至るまで、歴史認識も絡み、日本ではなかなか実相の伝えられない韓国経済について、一次資料、現地統計を駆使し、グローバル化の問題も含め、明らかにした。若手研究者の労作がまとめられたことを喜びたい。