前回のブログから10日ほどが経過しました。どうやら今回の総選挙は、自民党が単独過半数を取る勢いらしいです。総選挙後は、この安倍・自民党に公明、そして維新が連携するのでしょうか。そんな状況など、想像したくもありませんが、もしそうなれば、日本国憲法は本当に危うくなり、原発もこのまま、何事もなかったかのように動き続けることになるでしょう。国防軍が創設され、核武装が本気で目指されることになるでしょう(そのための原発の維持・推進でもあるはずですから)。 日本はこのまま右に舵を切るのでしょうか。それでよいのでしょうか。 新潟大学の佐野誠さんから『99%のための経済学―誰もが共生できる社会へ(教養編)』(新評論、2012年、1800円)が送られてきました(このあと、「理論編」も出版予定です)。佐野さんは、アルゼンチンを中心としたラテンアメリカ研究で名高く、地道な理論的・実証的研究を背景に、長く新自由主義批判を展開してきた研究者です。内橋克人氏らとともに様々な啓発活動にも関わっておられます。 本書は、3.11以後、佐野さんが始められたブログ「共生経済学を創発する」を再編集し、出版したものです。一時体調を崩されましたが、復帰後の研究、仕事ぶりは、まさに鬼気迫るものがあります。 本書では、経済危機の真因として「新自由主義サイクル」が挙げられ、その克服の道が模索されます。理論的説明は「理論編」に委ねられ、ここでは分かりやすい言葉と事例でもって、金融を肥大化し雇用を破壊する新自由主義サイクルの問題点や世界の動向が語られます。また、震災後の復興計画が、まさにナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」に基づく惨事便乗型資本主義の典型であることが論じられます。 危機を繰り返したくなければ、どこかでこの新自由主義サイクル、そして、原発サイクルを断ち切らなければならない。そのどこかとは、まさに「今」なのだということを説得的に論じた本書は、閉塞感を感じる若者にこそ読んでほしいですね。何とかしたい、何とかせねば、という純粋な思いを、新自由主義やら、言葉だけ勇ましい復古的国粋主義やらに掠め取られないようにするためにも。 以前、法政大学・粕谷信次先生の退職に際し、『経済志林』に寄稿したことがあります。「『まだない』ものに向き合う社会科学―ポシビリズムと希望学の対話」という論文です(『経済志林』78巻4号、2011年)。以下で、新自由主義の「自己責任論」を批判した部分を一部引用しておきます(全文を読みたい方は、ネットで検索すればすぐにファイルが見つかりますのでどうぞ)。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「頑張った人が報われる社会」というのは,新自由主義者・市場原理主義者がよく使うレトリックである。文字面だけとらえれば,反論しようのない真理に見える。だが実際のところ,「頑張った人」の基準など作りようがない。したがって,「頑張った」から「高い報酬を得ている」のではなく,市場が勝ち組と判断し,金を儲けている人たちを「頑張った人」と認定するという,「逆の論理」を展開するのが新自由主義者の常套手段となっている[上田 2005: 73-74]。 「自己責任」の原則に関しても,同じような論理が忍び込んでいる。お前は,やるべき時に,やるべきことをやらなかったのだ。「やりました」という言いわけは無用である。現に失業し,貧困に陥っていることそのものが努力の足りなさを表している。─―この種の自己責任論がまかり通っている。そもそも機会さえ与えられないことに対して,社会科学的想像力が及ぶことは少ない[斎藤 2004]。 本来「自分で決定したこと(できたこと)しか責任を問われることはない」という近代法の原則を意味したはずの自己責任論は,今や,流動化する社会のなかで増大している社会的リスクを,個人に負担させることを正当化するイデオロギーになってしまっている[宇野 2009: 272-273]。自己責任という近代社会以来の基本原理は,個人の責任を認めうるような社会的条件との関係で考えなければならない。にもかかわらず,それを抜きに自己責任論を濫用し,個人の自由な選択によらない不当な結果を人々に強要しているのである[田端 2010: 113-114]。 健全な社会であれば,自己責任の適用領域を線引きしようとするだろう[湯浅 2008: 83]。しかしながら,新自由主義流の自己責任論は,適用領域を線引きし,その責任を負いうるような社会的条件を整えるどころか,それらを解体する議論として展開されている。「小さな政府」のかけ声のもと,生活保障,医療保障,公教育,公共住宅・家賃補助制度などを切り崩してきた[田端 2010: 118-119, 293]。こうして,資本主義創生期のような「『失業と飢餓の恐怖』を復活させ,それを鞭にして『経済的活力』を高めること」が新自由主義に基づく「改革」ということになる[神野 2010: 8]。 自己責任を全うするための社会的条件を解体され,丸腰のまま弱肉強食の世界に投げ入れられれば,人は誰もが転落のリスクを負う。そして一度転落すれば,よほどの僥倖に恵まれないかぎり,格差社会の底辺に滞留せざるをえない。最底辺でルサンチマンが拡がれば,社会を流動化し,どうしようもない格差を打破するため,国民全員が平等に苦しみ続ける「戦争」を期待するなどという極端な議論も出てくる[赤木 2007]。 実際には「希望は,戦争。」では,現状変革の力とはならない。新しい状況への期待が人々に力を与えるという意味では,非常に困難かもしれないが,たとえば,希望は,非正規社員と正社員との「連帯」と言うべきだろう[広渡 2009: 21]。ところが連帯を模索しようにも,政治の世界では,新しいビジョンを提示し,人々の様々な利益をまとめ上げようという意欲も能力も欠いた政治家が,構造改革のスローガンのもと,やみくもに公務員や正社員らの特権や保護を叩く。特権や保護を引き下げることで政治的支持を拡げようとする[宮本 2009: 26-28]。そして,それが一定の「成功」を収めてしまう。 政治の責任は重い。だが,現状変革への道が見えなくなり,「暴力革命か,戦争か」という「気分のうえだけの飛躍」[広渡 2009: 21]が生じ,テロや戦争でしか現状を変えられないと考える人間がそこかしこに現われているとすれば,それは,政治家による「引き下げデモクラシー」だけの問題ではない。すべてを自己責任の次元に押し込め,格差や貧困を「不可避の現実」としてやりすごし,変革のプロセスや連帯への希望を提示できない社会科学にも責任の一端がある。まずは,社会科学のこうした現状追認イデオロギー,「現実」主義という不作為を乗り越えなければならない。【引用文献】赤木智弘(2007)「『丸山眞男』をひっぱたきたい─31歳フリーター。希望は,戦争。」『論座』1月号。上田紀行(2005)『生きる意味』岩波新書。宇野重規(2009)「社会科学において希望を語るとは─社会と個人の新たな結節点」東大社研他[2009]所収。斎藤貴男(2004)『機会不平等』文春文庫。神野直彦(2010)『「分かち合い」の経済学』岩波新書。田端博邦(2010)『幸せになる資本主義』朝日新聞出版。東京大学社会科学研究所他編(2009)『希望学1 希望を語る─社会科学の新たな地平へ』東京大学出版会。広渡清吾(2009)「希望と変革─いま,希望を語るとすれば」東大社研他[2009]所収。宮本太郎(2009)『生活保障─排除しない社会へ』岩波新書。湯浅誠(2008)『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』岩波新書。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ たとえどれだけ混沌とした状況であれ、「英雄待望」は危険です。2004年の拙著の最後あたりで、私は、アマルティア・センに言及しつつ、ブレヒトの『ガリレイの生涯』を引用しました(『可能性の政治経済学』法政大学出版局、2004年、340頁)。 『ガリレイの生涯』には、「英雄のいない国は不幸だ!」と叫ぶアンドレアに対し、ガリレイが「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」と反論する場面が出てきます。長いデフレに悩む日本でも耳を傾けなければならない言葉だと思います。 敦賀原発2号機の真下の断層が活断層という疑いが晴れず、廃炉となる可能性が出てきました。 日本原電をはじめ、原子力ムラは全力を挙げて、これを阻止しようとするかもしれません。これを認めたら「蟻の一穴」で脱原発に拍車がかかりかねませんから。  しかしながら、老獪な政治家やムラの重鎮は、敦賀原発2号機をはじめ、いくつかの原発を、ムラ存続の「生け贄」として捧げるかもしれませんね。その他大勢のムラびとと原発を救うために。 総選挙の行方とともに、今後の展開を注視する必要があります。