ロシアによるウクライナ侵攻から2カ月弱が過ぎました。ただでさえ新型コロナパンデミックが収まらず、重苦しい空気に覆われていたのに、現地の様子が毎日伝えられると気分が晴れませんし、先行きが不安です。何だか「嫌な感じ」です。 状況がどちらにも転びそうななか、双方の疑心暗鬼がどんどん増幅・拡大していけば、ちょっとしたきっかけ、不測の事態・事故で、第三次世界大戦に至ることもあり得ない話ではありません。
 戦術核の「限定的使用」という観測もありますが、「限定的」などというのは希望的観測にすぎません。いったん核兵器使用のハードルが下がれば、エスカレートするのは目に見えています。あっち(ヨーロッパ)で使ったら、こっち(アジア)で使うのもあり、なんていうことにならないと誰が断言できるでしょうか。下手をすれば、そのまま、戦勝国なき第三次(大惨事)世界大戦に突入です。
 現在の日本は欧米大本営がメディアジャックしているような状況ですから、すべての情報を鵜吞みにするのは危険です。ウクライナで多くの市民が無残な死を遂げていることは間違いないのでしょうが、あまりにカッカしすぎて冷静な判断が失われるのが怖いです(別の形で統制されているロシアでも、同じように市民がカッカしているのかもしれません)。皆が地政学の「にわか専門家」になり、地政学の「偏光(偏向?)サングラス」を通してしか「現実」を見られなくなっているようです。
 防衛研究所の時事解説が繰り返され、「国家」を主語とし「国家」を唯一無二の単位として話をする(話を聴かされる)のに慣れてしまうのが怖いです。惨事便乗型の軍拡路線=「ショック・ドクトリン」がいとも簡単に受け入れられそうな空気が怖いです。
軍拡は軍拡を呼びます。本ブログでいうところの「ギエロン星獣問題」、より一般的には「安全保障のジレンマ」です。自らの安全保障を確立しようと軍拡に走れば、周辺国の疑心暗鬼と対抗措置を呼び起こし、軍拡がエスカレートする。モロボシ・ダンが嘆き悲しむ「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」になります。ゴールに誰も勝者はいません。勝者を出迎える人も。
 ロシアの侵略開始から間もない3月8日、NHKの「アナザーストーリーズ」でジョン・レノンの「イマジン」が特集されました。絶妙のタイミングでしたが、どれだけの人が視聴したでしょうか。
 地政学や安全保障の専門家は、ジョン・レノンの「夢想」にかまけていないで「現実」を見よ、と言うのでしょうが、リアルとフェイクが入り交じり、情報が錯綜する中、「ヒール」と「ベビーフェイス」に分けて「プロレス」を楽しむかのような愚は避けなければなりません。「現実」はそう単純じゃないし、権力者が見せたがる「現実」に冷静に向き合うためにも、マッチョな連中が押しつけようとする「現実」を相対視するにも、「イマジン」に耳を傾けたほうがよいと思います。現在進行中のロシアの侵略に乗じ、日本で軍拡を進めようという動き、「ショック・ドクトリン=惨事便乗型軍拡主義」には、くれぐれも注意しなければなりません。
 このブログでは、丸山眞男の「現実主義批判」に何度か言及したことがあります。現在の日本において、ウクライナ情勢を背景に、核兵器や敵基地攻撃能力の保有を図ろうとする連中がうごめくなか、再度取り上げます。必要があれば、何度でも取り上げます。必要のないほうがいいですけど。
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~2011年4月10日付「研究室だより」から~

 周知のとおり、丸山眞男は、死後もなお、様々な分野の研究者によって注目される政治学者であり、戦後の市民運動にも大きな影響力を与えた人物のひとりです。「「現実」主義の陥穽」という丸山の論文は、もともとは、太平洋戦争後の日本における再軍備をめぐって議論が沸騰していたさなか、「ある編輯者へ」の手紙という形で、『世界』の1952年5月号に掲載されたものです。その後、著名な論文集『現代政治の思想と行動』に収められました(未來社、1964年増補)。
 この論文中、丸山は、東西冷戦下、西側の一員として再軍備を進めようとする「現実」主義者たちの議論を厳しく批判しています。日米安全保障条約のもとアメリカに追随し、軍備を整えることが「現実」的で、それ以外は空想的観念論にすぎないと主張する保守派への批判です。
 「現実」なるものを丸飲みする「現実」主義の問題点、陥穽を鋭く突く議論は、時代状況こそ違っても、50年以上を経た今も、十分に通用する。そうした思いから、私はこれまであちこちで、新自由主義批判を展開する中で、この論文を引用してきました
……〈中略〉……
 丸山は、現実主義者のどんな論法を批判したのか。
 まず第1に、現実主義者は、現実の「所与性」を強調し、「現実」と「既成事実」を混同している。現実が「すでにできあがったもの」として捉えられれば、「現実だから仕方がない」という諦めにもつながるだろう。しかしながら、「現実」とはまた、日々つくられるものという側面を見落としてはならない。
 第2に、現実主義者は、現実の「一次元性」に囚われている。現実なるものは、きわめて錯雑し矛盾した「様々な」動向によって立体的に構成されているはずだ。にもかかわらず、現実主義者は、現実の「ひとつ」の側面だけを強調し、「これが現実だ」と騒ぎ立てる。現実主義者は、多様で矛盾に満ちた現実の一面のみを、自らの価値判断にしたがい「選択」しているにすぎない。
 そして第3に、第2の点とも絡むが、現実主義者は、その時々の支配権力の「選択」する方向をすぐれて「現実」的であると喧伝するのに対し、反対派の「選択」には簡単に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼りがちである。その「現実」的可能性に目を向けようとはしない。権力側の既成事実の積み重ねに屈服しないためには、観念論という非難にたじろがず、現実主義者の特殊な「現実」観に挑戦していかなければならない。
 以上が丸山眞男による現実主義批判の骨子です。丸山眞男の論文を真摯に読めば、……〈中略〉……世間で言う「現実」主義の大半は、単なる「既成事実主義」「ご都合主義」「権力迎合主義」にすぎないことが分かるはずです。
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 現実と既成事実の意図的混同は、別の「現実」に向かう動きを阻止する意味を持つ。だからこそ、ロシアによる侵略が明白すぎて、みんながカッカし、権力者の「現実」観に流されないように、もう一度「イマジン」に耳を傾けることも大事になると思います。国家や宗教の存在を当然の前提に人は他者との間に線を引くけど、そんなものがないとしたらどうか、想像してみようということです。
 さらにもうひとつ。
 初期の矢野ゼミ生には、坂口尚の『石の花』(全5巻、講談社漫画文庫、1996年)を必読書として推薦していました。第二次世界大戦中のバルカン半島の反ナチ・パルチザンを題材にした漫画です。今また読み返されるべき名著です。
 物語の最終盤、解放された祖国に戻った主人公クリロに総司令部から電話が入る。クリロ・ペート少尉に戦功勲章を授与するというものですが、そこでのやりとり。
 自ら戦った戦争を疑問視するクリロに対し、上官が戦争の「現実」を語り、平和のためには殺し合いも致し方なかったと述べる。クリロに人間の想像力と創造力を教えたフンベルバルディンク先生を小馬鹿にしながら、「きみの描いている平和は非現実的だよ 幻想だ」と一笑に付す。 クリロは激怒し、言い返す。 ――そうしてあなたも現実を肯定してしまうんですね 合点してしまうんですね ――それこそ戦争を起こす原因なんだ ――真に平和な世界をだれ一人だれ一人経験したこともないのに どうしてダメだと言えるんです!?
 ――これからこの星にうまれた私の生活がはじまるんだと思っています
 ――守るとか攻めるとかではなく 何よりも何よりも創らなければならないんです
 マッチョな「現実」主義者は「それがどうした」と笑うかもしれませんが、今年度「開発経済論」の初回オンデマンド講義の冒頭ではバックにジョン・レノン「Give Peace a Chance」を流しました。「平和にチャンスを」はクリロの叫びです。「平和にチャンスを。だって誰も経験したことがないんだから、やってみなきゃ分からない。不可能なんて、誰にも言えない。」
 テレビに出てくる安全保障の専門家と称する多くの人は、軍事作戦研究、兵器研究の専門家のように思います。いったん戦争が始まった後の戦術・戦略の専門家のような気がします。現在進行中の戦争の解説には、そうした専門家も必要なのでしょうが、安全保障をそこだけに限定していては、安全など保障されない。少なくとも、もう少し視野を広げるべきで、紛争・戦争を予防してこその安全保障ではないか。そうしたなかで注目されてきたのが、「人間の安全保障」です。安全保障は作戦・兵器研究者の専売特許ではありません。
 ただ、今の日本の政治勢力図、世論調査に見られる国民の受け止め方からすれば、軍事予算の対GDP比2%など軽々と超えられるのかもしれません。維新のような「ゆ党」、文字通りの「よ党」に合流したい国民民主党などが、右にハンドルを切った連合の力をバックに与党に乗っかり、軍拡が進んでいきそうな情勢です。安倍政権がおっぱじめた防衛装備庁「安全保障技術研究推進制度」の予算もさらに拡大し、長年の兵糧攻めに苦しんできた大学がますます踏み絵を迫られることになりそうです。そして、日本学術会議の会員任命問題を通じ、学界をグリップしようという権力の姿勢が強まりそうです。本当に「嫌な感じ」が漂っています。
 市民は今こそ、この日本において310万人もの命を犠牲にして勝ち取った平和の意味をかみしめなくてはなりません。あっちが攻撃するからこっちも。あっちも核兵器だからこっちも。これでは町のヤンキーと変わりません。北朝鮮と同じ論理に乗っかることになります。
 でも、この「嫌な感じ」は長期化するかもしれません。アメリカがこの状況を作り出したとまでは言いませんが、現況に必ずしもマイナス面ばかりを見いだしてはいないと思うからです。平時なら同盟各国に軍事予算の対GDP比2%突破を迫るのは必ずしも簡単ではなかったでしょう。でも今は、各国とも雪崩を打ってそちらに傾きそうです。核兵器の使用さえコントロールできれば、戦争がダラダラ続き、ロシアは消耗していきます。一方、仮想敵国(とは言っていませんが)中国に対抗するための負担を各国に分担させる力は強まります。そのうえ、戦争の長期化は兵器・武器の在庫処分にもなり、軍需産業が潤うでしょう。本当に「嫌な感じ」です。 人類は今、100年以上前の宿題に完全には答えきれていなかったことを再度思い知らされているのでしょう。多国間で軍縮条約・不戦条約を制度化し、グローバルガバナンスを確立するという宿題です。二度目の世界大戦を経て、今度こそとの思いで作られたはずの体制は盤石ではありませんでした。完全回答ではなかったのです。だからといって、すべてダメだった、無駄だったというわけではないはずです。 Webで「ネチズンカレッジ」を運営する加藤哲郎氏は、ページの冒頭に長年、丸山眞男の言葉を掲げています。
「戦争は一人、せいぜい少数の人間がボタン一つ押すことで一瞬にして起こせる。平和は無数の人間の辛抱強い努力なしには建設できない。このことにこそ、平和の道徳的優越性がある。」
 戦争を始めるのは簡単でも、終わらせるのは難しい。第二次世界大戦時の日本と同様、ロシアも実感していることでしょう。
【最近いただいた本】
☆成澤徳子編集代表/秋葉丈志ほか編『人口減少・超高齢社会と外国人の包摂―外国人労働者・日本語教育・民俗文化の継承』明石書店、2022年、4500円;
 国際教養大学に籍を置く成澤さんが、国際教養大学のメンバーを中心に行われた共同研究をとりまとめた。高齢化・人口減少は日本全体の課題だが、秋田は最先端を行っている。課題先進県の取り組みは、他の自治体にとって課題解決へのヒントになるだろう。外国人の包摂という課題には、日本社会が本気で取り組まなくてはならない。
 日本の移民研究、移民政策が本筋からズレているのは伊豫谷登士翁『グローバリゼーション―移動から現代を読みとく』(ちくま新書、2021年)からも明らかだ。