高崎市内、成田神社の裏に「三月兎」という飲み屋があります。非常に「シブい」店で、日本酒がすごく旨い。マスターの知識も豊富で、いろいろな酒がストックされています。料理も、脂っこい揚げ物出して、さあ飲め、さあ食えという感じ(町なかのコンパ屋のような)ではなく、いいものを出します。品のいい味付けです。場所が場所、店構えが店構えなので、知っている人じゃないと、まず中に入ろうとはしないでしょう。そもそも店が見つけられないかもしれません。店の電話が電話帳にも載っていませんから、学生諸君で行ったことのある人は少ないと思います。コンパ屋とは趣の違う大人の飲み屋です。 私が初めて三月兎に行ったのは、赴任してまだそんなに年月が経っていない頃。当時、高崎経済大学におられたK先生(政治学担当)に連れて行かれたのが最初です。その後、大学を移動した彼とは、もともと特に親しかったわけではありませんが、そのときは彼からの誘い。「高崎ではここしか知らなくて」と案内してくれたのが三月兎でした。 なぜ誘われたのか。今から思うと、要は、当時、学内でいろいろな議論が出ていた学部増設問題についての「意見交換」ということだったようです。「声の大きな人の話は事前にいろいろと聞いておいたほうがいいと思って。」と彼は言いました。法学部だ、国際関係学部だ、といろいろな話が出ましたが、詳しい話は忘れました。飲んだ酒は、覚えています。ビール以外には、当時お気に入りだった久保田の千壽を飲んだはずです(万壽は高かったので)。 「僕が誘ったから」というK先生の言葉に甘え、その日はおごっていただきました。後日、返礼という形で、筑縄の鮨屋「いちかわ」にお誘いし、そこでもいろいろな話をしました。先にも書いたとおり、プライベートの面で特に親しかったわけではないのですが、サシで2回も飲んだことになります。私としては珍しいことです。人間として、基本的には嫌いじゃなかったんでしょうね。研究者としてもきちんとした人でしたから。 これを書いていて、今思い出しましたが、彼、そういえば一度だけ体育館のトレーニング室にも来たことがあります。「今度トレーニングを教えてもらおうかな。体がなまっちゃってるから。」と言うもので、「是非どうぞ。いつでもいいですよ。」と答えたら、本当にジャージ姿で体育館に現われたので、びっくりした覚えがあります。 とにもかくにも、三月兎はその後すっかりご無沙汰でした。いや、一度、1997年頃に行ったかな。いずれにせよ、場所的に家からも大学からも遠く、足が遠のいていました。それでも印象的な店で、いつか行こう、いつか行こうと思っていましたから、ウオーキングの時なども、ゼミ生には、「成田町に三月兎っていう良い店があってな、・・・・」という話をよくしていました。今年の3月、本当に久しぶりに三月兎に行ったのは、ゼミ生とそんな話をしていたから。14期生が謝恩会の店として選んでくれたのが、三月兎でした。 そのひと月後、経済学部H先生の学位取得のお祝いも、三月兎でやりました。お祝いに参集した教員にはK先生を知っている人もいましたから、マスターがK先生に電話をつないでくれて、そのときに、私やN先生、H先生らが彼と話しました。本当に久しぶりに聞いた声です。「お元気ですか。」「いやあ、いろいろと大変で。」祝宴の合間のほんの数分の会話でした。 先週木曜日の昼休み、基礎演習のメンバー(ゼミ16期生)に英語の追試験をやっているところに、三月兎のマスターMさんから電話が入りました。あれからまたしばらくご無沙汰だったので、何事かと思ったのですが、電話の向こうでマスターは話しました。「K先生が亡くなられました。」「えー!・・・。」 突然の電話に驚きました。まだ54歳。最近では、日本政治史の本を次々と出版され、まさに研究者として脂の乗りきった年頃。でも、病には勝てませんでした。いろいろとご苦労があったのでしょう。高経大におられた頃は、高崎経済大学生協の理事長も務めておられましたから、矢野ゼミ卒業生の中にはK先生を覚えている人も多いでしょう。教わった人もいるかもしれません。 「地域政策学部の名付け親は、Kさんや。準備委員会の場で、その名を初めて口にしたのは、彼やった。」と地域政策学部のN先生は言っておられました。地域政策学部も創設から10年以上が経ちました。年月の経つのは本当に早いものです。 K先生のご冥福を心よりお祈りいたします。