(※インスタ重複)
自宅看取りで、老衰のお手本みたいな感じでおばあちゃんが旅立った。
享年100歳。
おばあちゃーん来たよー!
当たり前だけどもういない。返事もない。
それが寂しくて不思議で悲しくて涙が出てくる。
わかってる。
死んだからいない、そりゃそうなんだけど。
いつかこんな時がくることももう充分に大人だから知っている。
でも寂しいものだ。
亡くなった父方のおばあちゃんは幼い頃の私にとってめちゃくちゃ厳しくピリリと怖い存在だった。
愛情深いんだけど、なんかピシッとしていて自然と背筋が伸びていた。
祖父がまだ若いうちに亡くなったのもあって、叔父叔母や父たちは祖母を安心させたい一心で社会的にも立派になった。
その華麗なる一族の中で幼い頃の私と妹は、華麗なる従兄弟、従姉妹たちに圧倒されながら育った。
厳しくてピリリな祖母は、努力家で負けず嫌いでいつもスーツかお着物を着ている人だった。
一族集合のたびに長男である叔父からは「素直に、心豊かに逞しく生きる」という教えを叩き込まれた気がする。
そして、それが祖母たちを大切にすることになるんだよ、と。
自分の生き様は親、親族に返ってくるよ、と。
おばあちゃんの誇りでありたいと自然と皆んな思ってやってきたと思う。
大正生まれのおばあちゃんは、地方政治家の娘で裕福な家に生まれながらも、実母がはやく亡くなり継母に育てられた。
継母には辛くあたられ、行きたかった女学校へ通わせてもらえなかったそうだ。
弟たちは大学まで出してもらえて、自分もすごく勉強がしたかったと晩年に語っていた。
だから孫である私たちにも勉学については尚更厳しかったんだと思う。
従兄弟、従姉妹たちは優秀で、それに比べて私と妹はポンコツ。
でも最期、おばあちゃんはありがとうありがとう、自分の子どもたちも孫たちもひ孫も皆んな皆んな素晴らしい良い子、と褒め称えて逝った。
自宅看取りだから、誰か必ず側にいたんだけど、とにかく、ありがとうという言葉と、大好きよ、と、良い子だね、とそんな言葉を繰り返していた。
最期まで自分の脚で歩いたし、泣き言一つ言わなかった。
告別式のとき、叔父が親族皆んなに言った。
おばあちゃんを皆んなでそれぞれ得意分野で分担しながら見送ることができて良かったと。
そして、その個性を大切にして、これからもそれぞれ命いっぱい生きようと。
世間的に立派とか、出世とか、そういうメジャーだけが大事じゃなくて、それぞれが周りを大切に命いっぱいに、と。
そんな感じで。
私にとって、祖母の看取り期は、いろんなものが拭われてアップデートされた日々だった。
うちの長男のび太は、告別式では号泣。
しかしやはりのび太。
火葬場では、おばあちゃんがこんがり焼けて出てくると思っていたようで、骨上げのときは目をまん丸にして驚いていた。
パンじゃないんだから。ね。
よくわかってないかもしれない2歳次男が「おばあちゃんほねだけになっちゃったねぇ〜」としみじみ言い、皆んなで泣いて笑った。
#長い
ここまで読んでくれたあなた、物好きだね。
ありがとう❤️だいすき。