私が20代の頃に出会い、心の病から救ってくれた精神科医の小林絢子先生は、自己と自我についてよく話される。 自己とは何かをする行為そのものであり、自我とは、それをどう感じるか。 この自我が確立できてない人は、自分に自信がなく社会での人間関係がうまくいかないと言う。 これについては、もっともっと興味深い内容の話しがあるのだが、この言葉を聞いて私は
初めて自分の自我が成長していないことに気付き、心の病の原因らしきものが見えてパッと目の前が明るくなったのを覚えている。
また、小林先生は「妻が夫に服従している家の子供は温和には育ちますが、社会に出たとき、
押したり引いたりのかけひきや、いろんな葛藤に弱いと思います。」とも言われている。
家庭は安らぎの場と言うよりは自我のぶつかり合う自我の戦場みたいな場で、意見が違い衝突する中で、どうやって折り合っていくかを学ぶ場だそうだ。
その為には、「自分はどう感じるか、どう思うか」が明確でなければいけない。 子供の自我は9才までは母親が決めるらしいがそれ以後は違う。 自我が育ってない子はいつまでも親の自我に合わせて自分がない。
そんなこんなを考えていたら、我が子の事を思い、更に私も自分の自我を確認しながらきちんと生きていかなきゃ!と思う。

昨日はパーティーsoonわたぼうしの日。毎週月、水曜日は南岩国駅まで母が迎えに来てくれて、それから「わたぼうし」まで乗せて行ってもらう。しかし昨日は母がどうしても私に見せたいものがあるから家に寄ってくれと言う。実家に寄っても「わたぼうし」着に10分程度の遅れしかないだろうから言われるままにした。実家に着くとyanmisaseさんのブログ-CA3C0130.jpg

ゴーヤのカーテン! これを見せたかったらしい。 それはそれはきれい! 私はツルがはう植物はあまり好きではないが、母のゴーヤは本当に涼しげできれい。 さぞかし毎朝毎夕に手入れをしたのだろう。 「すごいね~本当にきれいね~」と私が言うと「大したことはないがね」と誇らしげだった。 家の中に入ることもなくそのまま車に乗り込み「わたぼうし」に向かった。 そう言えば、実家には、かれこれ2年位帰ってない。 母はこの家で1人でご飯を食べ、1人でテレビを観て、1人で寝て、1人でゴーヤの世話をしている。 今日はゴーヤを見にきて本当に良かったなと運転する母の後ろ姿を見ながら思った。
「刺さっていたのは、虫メガネで見ねばわからないほどの、とげであった。そのとげを見ながら思った。私はもっともっと痛いとげを人の心に刺し込んだりしてはいないだろうかと。こんな小さいとげでも夜なかに目をさますほどに痛いのに、とれないとげのような言葉を口走ったりはしなかったかと。」 19才の時に出会った坂村真民先生の詩の中の一節だ。 昨夜はミ~ンと耳元にいる蚊と小さなとげのせいで目が覚めた。 こんな時には必ずこの詩を思い返す。 自分だけが悲しいのではない、淋しいのではない。皆いっしょなんだと思えばとげが抜ける。
私の人生の指針である詩「タンポポのように」の心でに生きるのではなかったのか?と改めて自分に問いただす。
今日も1日を穏やかに過ごそう。