国ってなんだろう?国の根本はどこにある? | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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ヤン・ウェンリー命は2ちゃんねるのコテハンです。

反新自由主義・反グローバリズムコミュニティ【ブルーオーシャン】の管理人もやっています。

はい、コテヤンです。

経済やら政治を考えるときに、その根本に置かなければならないのは「国」というものの概念です。
前提条件として、我々は民主主義国ですので、それを踏まえた上で考えなければならないと思うのですね。

ここで思索にふけるにあたってとっても参考になったのが、中野剛志先生の「日本思想史新論」です。
大雑把に解説しますと、中野剛志先生は江戸時代からいた日本の偉大な思想家達の朱子学に対する反証的な試み(実践主義で考える)、またその思想家たち(会沢正志斎だったか?の新論)が明治維新に与えた影響の大きさ、江戸幕府がペリーの来航を1年以上前から知っていた事実等を通して、日本に漫然と未だ横たわる「開国史観」に痛烈な一撃を浴びせております。

本書の組立はこんな感じ。
・朱子学に対して古学が実践主義的に論じ、朱子学の合理的思考(世の中の絶対の理の追求)を否定した。その思想家たちの分析

・その流れを受けている会沢正志斎がペリー来航の20年以上前に、外国が日本を狙っていることを予見し、軍事力の強化やネーション国家の礎となる思想を新論としてまとめたこと。

・この新論は攘夷志士達のバイブルとなっていたこと

・江戸幕府はかなり高度な海外の情報を得ていたこと。決して太平で平和ぼけしていたわけではないこと。

・しばしば明治維新は「開国」「鎖国」で語られるが、これは全くもっておかしいという検証。
※開国の決断は幕府という実例や、本来は「攘夷派」と「避戦派」の対立であり、攘夷派にも開国派と鎖国派、避戦派にも同様に開国派と鎖国派がいたという事実を指摘している。

上記事実は明治政府が「富国強兵」「臥薪嘗胆」を掲げ、外国に対抗できる国を作ろうとしていることからも、この区分けが正しいと思われる。

・しばしば第二次世界大戦で日本人による日本の批判に使われる「国体」であるが、これは上記古学の流れからの思想家たちにより定義がなされている←個人的にはこれが目から鱗でした
※国体とは大雑把に言うと国民自決権(植民地化などされないこと)と天皇家存続(歴史、伝統の断絶を避けること)と定義されている

・文明論や学問のすすめで知られる福沢諭吉は、明確に攘夷を志しているし、古学の思想家達とも共通点が多い


内容がかなり濃い本ですので、ざっと説明するだけでも大変ですw
さて、民主主義国家の根本となはにか?と問われれば、明確に国民自決権が行使できる状態であること。これが民主主義国家を民主主義国家とさせている大前提なのだと。

日本の場合はこれに加えて、国体の護持とは天皇家の存続と上記の2つの条件から成り立つと思われます。


国民自決権とは国家が独立をしていないと失われるものであり、その独立を脅かす敵があるときは必戦の覚悟を持つことだと福沢諭吉も説いております。
※ここらへんはクラウゼヴィッツも戦争論の中で延々と述べていますね。



国家は国民を豊かにしていかねばならない。そうすれば国力も増大する。国力が増大すればいかなる時でも独立を脅かされる危険が無くなる。
結果として国家の義務である「国民の生命、財産、領土を守る」につながるのではないか?と思うわけですね。

国とは何なのか?日本国家とは何なのか?それを問うときに「国民自決権の保持(一国の独立)」「天皇家の存続」の2つなのだと。
コテヤンはこういうふうに定義するのですね。


追記
経済や政治を語るときにややもすると、大前提たる独立、自決権などが「自然に時代によってもたらされている」と勘違いした思考になる人達がいます。もしくは「あって当然のものなのだ」と。
しかし歴史を見て、思想家たちに学んだ時、それはとても危険な思考回路なのだと思い知らされます。
国民自決、国家の独立は国民が強い気概を持っていなければ、すぐに失われてしまうものなのです。
我々の祖先たちは江戸時代の国難の危機に対して、明治政府を打ちたて富国強兵と臥薪嘗胆を旨とし、一国の独立を守らんがために戦って参りました。我々現代に生きる日本人ももう一度その気概に学び、日本という素晴らしい国を将来世代に残すために戦っていかなければならない。
そう強く思った次第です。



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