新自由主義者が信奉するリカードの比較優位論が適用できるのは共産主義だけな件 | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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ヤン・ウェンリー命は2ちゃんねるのコテハンです。

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はいコテヤンです。
風呂場で色々考えてたら
「リカードの比較優位論って実は共産主義では有用なんじゃね?」
と思った次第です。

まずリカードの比較優位論を知らない人のために解説。と思ったのだけど、コテヤンの馬鹿な説明よりwikiの方がよさそうなのでどーぞ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%BC%83%E5%84%AA%E4%BD%8D

要は重商主義(貿易関税高くして貿易で利益を上げることが目的)の時代の中世あたりに、自由貿易の方が利益になる!とリカードちゅー経済学者が唱えた理論。

各国が得意なものをお互いに分業して作ると、総体的な生産量が多くなり、お互いに豊かになれるんじゃね?と言うのが概要。
ちなみに新自由主義を信奉する人達の根本には、このリカードの比較優位論か、もしくは訳のわからないグローバリズムという宗教があるわけです。

以上がリカードの比較優位論。
で、この理論の前提条件としては必要だろうと言われているのが下記。

1)セイの法則:供給が需要を産み出す(逆じゃない、つまり需要が無限にあることと解釈してもよさそう)
2)完全雇用
3)資本移動の自由がない


さて、これを民主主義で資本主義が主流な各国に当てはめると、まず条件1は日本において崩れている。つまりデフレ。
1930年代の世界大恐慌で各国が保護主義なりブロック経済なりに走ったのも、状況によっては自由貿易が国民にとって不利益になることもあるからという証明。

2)これはどう見ても資本主義であるかぎり無理ぽ

3)も現在は完全に無理。例えばトヨタは現地生産を進めていたり、アメリカにはグローバル企業と呼ばれる企業がたくさんあったりと。

とどのつまり、現在の世界においてリカードの比較優位論は当てはまらないというのが、コテヤンの意見。



でもね…そうなのw
共産主義国が沢山あれば、リカードの比較優位論は大活躍するかもしれない!wwwww

1)の条件に対して、共産主義国の国民はどれだけ懸命に働いても大して給料が上がるわけでもないので、そもそも生産性が低い。

2)共産主義は国民に完全雇用を保証している

3)共産主義国に資本移動の自由なんぞない。大体そもそも資本とは国が一元管理するものである。


うはっwwwwwwwwwwいけるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwつまり世界約200カ国が共産主義であれば、リカードの比較優位論は立派に通用するwwwwwwwww
ま、所詮私素人ですから、本当に通用するかどうか、適用できるかどうかという思考実験は他の人にお任せするとして…
まぁあり得ない仮定ですわな。


で、本旨に戻りますと以上のような論理から新自由主義者がかたくなに信じ、主張をしてきたリカードの比較優位論を適用させるのに、最も適した社会制度は共産主義という皮肉にもほどがある結論が出たわけですが…


さて、ココからはリカードの比較優位論から若干離れて、新自由主義者達が主張する「構造改革!」だとか「抜本的改革!」だとかに笑点(いや焦点?)を当ててみましょう。

そもそも素直に日本で彼らの唱える上記を捉えると「(日本の社会制度の)構造改革!」であり「(日本の社会制度の)抜本的改革!」なのですね。
改善でもなく改良でもなく「改革」なのですから、おそらくシステムそのものを新しくしよう!古いシステムはもういらない!ということなのでしょう。

ココで考察。
現在の社会システムに問題が多々あることは承知してるのですが、その新システムとやらに問題はないのでしょうか?
現在の社会システムは少なくとも60年間ほど改良に改良を重ねて、ある一定程度洗練されていると思うのですが、構造改革論者たちはそれを超えるシステムを作れるのでしょうか?

というかそもそも人間が作るシステムなので問題があって当然で、議論すべきは「いかに問題が少なくなるように改良していくか、改善していくか?」というのが本来あるべきだと思うのです。
何故なら新システムでは今までのノウハウが使えないから。←これを構造改革論者たちは「既得権益の打破!」とか呼んでいますが。


さて、じゃぁこの革命にも似た新しいシステムが全て悪か?と言われるとそうでもないわけですが。
例えばフランス革命。
専制主義から民主主義にという革命が起きたわけですが、これは「進歩であった」と断言できます。
(民主主義自体が、暴力なき革命を可能にするギミックでありシステムですからね)
では構造改革論者(新自由主義者)達が叫ぶ構造改革との違いは何でしょうか?というとすごく簡単な気がするのですね。


つまり民主主義というのは
「政治は国民がその権利と責任を負いましょう。そして皆でより豊かになれるように議論しましょう」
という、基本的な目的としては「国民が幸せになること」を目的としているからです。


でもコテヤンは構造改革やら抜本的改革をやれば「国民にこれだけの利益があります!豊かになれます!」という話を聞いたことが無いかも知れません。
(あったら教えて下さい)

例えば小泉純一郎は
「痛みを伴う改革!」
とはっきり言っていましたし、近年のTPP議論については賛成派が上げるメリットは牛丼の値段だけと言っても過言じゃありません。
大阪都構想なんてメリット、デメリット以前に構想自体が「2重行政の解消」だけですし、道州制にいたっては地方に財源を移譲するから、自己責任でやれ。弱いところは知らん。努力が足りんときって捨てるような議論です。

構造改革論者や新自由主義者の目的っておそらく「国民が豊かになること」では無いのだろうなぁと思う次第です。
じゃぁ彼らの目的は何なのだ?と聞かれると、以前も言ったとおり「いや宗教じゃね?」とか思っていたのですが、これもお風呂場でのほほんとしてて思いつきました。

あ、ミーハーなんだ多分。

と。
新しいが彼らにとって正義であり、新しいシステムは無条件に正義であり、まだ見ぬ(というか実はもう2008年まで見てるわけですが)グローバリズム社会という新しい社会が正義であり、目的なんぞなく改革が正義なのだと。
で、上記正義の為にリカードの比較優位論なんぞを引っ張り出してきていると。
つまり結論ありきで、理論は後付ということですな。うわぁ中二病かよ…w


という感じで今日の考察は終了です、チャンチャンと。
抜本的改革とかいってねーで、何処をどう改善してよりよい社会制度を目指していくかちゅー議論のほうが地味だけど、100万倍有益だな…と思う今日この頃。




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