昭和22年6月、やっと引き揚げがきまった。

 

敗戦直後、暴動が起き、普蘭店から、大連まで、白旗を掲げて、やっとのことで逃げ延びた。

 

それからは、飢えと、ソ連兵が入ってきたための治安の悪さに、悩まされたという。

 

 

引き揚げが決まっても、やっと日本へ帰れるという、安どと、日本がどうなっているかという、不安に襲われた。

 

引き揚げの船の中でもなくなる人があり、亡くなった人は水葬にされたという。

 

 

佐世保の地を踏んで、やっと生き延びたと感じたそうだ。

 

小さい子を三人も連れた母は、みなよリ、遅れがち、、。

 

見ず知らずの住人の方が、まあ、お気の毒にと、自分の荷物を放り出して、兄を負ぶってくれたと、母の語り草であった。

 

 

母は、栄養失調で歩けない3歳の兄、まだ歩けなかった2歳の私、二人を負ぶって姉の手を引いて、船を降りたのだ。

 

 

会社の方たちと一緒の引き揚げだったので、会社の本社のある愛知へ向かった。

 

そして、転がり込んだのは、もう、隠居をしていた、母の父親の家だった。

 

 

母は、25歳の時、母親を、多分卵巣がんと思われる病気で亡くしていた。

 

頼った父親も、あくる年に、亡くなって、母は、孤立無援、、。

 

 

兄弟も近くに住んでいたが、皆、敗戦で、貧しい生活の中、頼ることはできない。

 

母の生活との戦いは、この時から、はじまったのだ。