都会の生活は楽しかったけれど、子供になかなか恵まれなかった、母は、養子を迎えようと決意する。
母の弟、父の妹と、結婚していて、そこの3番目の子供を、養女にした。
昭和15年のことで、母は、生まれてから、養女にする赤子をつききりで世話をした。
生後3か月になった姉を抱いて、田舎から、東京に帰った。
そして、18年には、思いがけなく兄を授かる。
そのころから、平和な生活に、戦争がおそい掛ってくる。
19年4月、父に、満州赴任が決まった。
小さな子供二人を連れて、行きたくない母は、田舎で待つと主張したが、許されなかった。
負けたら、どうなるの???
非国民、と、周りに叱られて、不承不承で一緒に行くことになった。
私も、なんでついていったの??? こう口にして、言葉を飲んだ、
母がついていかなければ、私は、この世に生まれていない。
20年3月21日、慣れない異国で、母は、私を生んだ、、。
大連近郊の、普蘭店というところが出生地である。
そしてその5月初めに、父に召集令状が来た、、、。
生まれたばかりの赤ちゃんの私、1歳の兄、4歳の姉を、母に託して、父は、最前線へ、、、。
それから、終戦。満州で、暴動に会い、何もかも、無くして、残ったものは、子供三人。
父のいたころは、奥さんで、助けてもらえたが、避難民となってからは、自力だ。
生きて、日本へ、家族皆で帰ることが、母の、強い目的となった。
満州の冬は寒く、会社の方々との共同生活の中でも、飢えには、悩まされたようだ。
引き揚げまで、避難民生活は、2年近くに及んだ。
治安は悪いし、食べ物はない。
母は、赤子の私を背負って、日本人立ち入り禁止地区まで、牛乳を買いに行ったという。
危ないところへ行くなら、赤子も一緒にという、全体を率いる責任者さんの、申しつけだったとか。
責任者さんのつらさもわかる話で、それほど、逼迫していたのだ。
同じ、仲間の中からも、栄養失調で、病死者まで出たりしたとか、、。