野々市市 史跡 末松廃寺跡 | 金沢徒然日記

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日々金沢中を徘徊している暇人ぱんだが、つれづれなるままに加賀百万石の文化都市、金沢のことを書き綴ったブログ。金沢の観光スポット、神社仏閣、文化施設を深く深く掘り下げて紹介していきます。

野々市市(´Д` )

石川県の中部に位置する市です。

石川県というとやはり加賀百万石の城下町・金沢が有名ですが、野々市市も市内に歴史的な街並みや史跡を有しておりまして、歴史好きにはたまらない場所となっております。

今回はそんな野々市市の史跡「末松廃寺跡」について紹介します。



​史跡 末松廃寺跡

こちらが末松廃寺跡です。

石川県野々市市末松にあります。

金沢駅から北陸鉄道バスに乗り、末松2丁目バス停下車で徒歩5分の距離にあります。

まあぱんだは歩いていきましたけども(´Д` )

遠かった(´Д` )


末松廃寺は今から約1300年前に建立された北陸最古の寺院です。

1937年に塔心礎や金堂跡の調査が行われ、1939年に国の指定史跡となりました。

石川県下で最初の史跡公園(全国では三番目)であり、戦前戦後の大掛かりな発掘調査によって、遺跡のほぼ全体の様子が明らかになっています。


伽藍配置は法起寺式で、二町四方と推定される寺域の中央の東に仏舎利を納める塔、西に本尊を安置する金堂を配した白鳳時代後期の寺院跡となっています。

金堂の規模は東西19.8メートル、南北18.4メートルで、飛鳥時代・白鳳時代においては一般的な大きさですが、塔の基礎部分は一辺が10.8メートルと非常に大きく、七重塔と推定されています。


堂塔の四周から多量に出土した瓦のうち、軒丸瓦は地方色豊かなものです。

また、寺域内からは和同開珎の銀銭、須恵器の高杯やつぼなど貴重な遺物が発見されています。

中でも和同開珎は日本最初の流通貨幣(それ以前の富本銭はあまり流通しなかったと考えられている)で、特に銀銭は鋳造期間が708年8月から翌年8月までと短いため、非常に貴重なものとなっています。


末松廃寺は国家政策としての新規開発を進める象徴として建立されたものです。

この巨大寺院を建立したのは、北加賀を中心に一帯を支配していた道君一族であるという説や、南加賀の豪族であった財部造であるとする説があります。

河川の氾濫が激しい手取川扇状地の開発に取り組んだ多数の農民と地方豪族の壮大な記念碑と言える史跡です。


​史跡 末松廃寺跡

広いですね(´Д` )

かつては壮大な寺院があったと思うとロマンを感じます。


​末松廃寺跡 掘立柱建物跡3

この場所では、掘立柱建物跡が二棟重なって見つかったそうです。

白い石を敷き詰めた部分の建物が老朽化してしまったため、新たに黒い石を敷き詰めた部分の建物が建てられました。

落ち葉でちょっと分かりにくくなってますが、確かに白黒分かれてますね(´Д` )

全容は明らかになっていませんが、いずれも梁間は二間で、桁行は二間以上と考えられています。

掘立柱建物は、直接地面に柱が埋まっているので根元が腐りやすく、20年から30年で建て替えが必要でした。

東側建物跡の一隅で見つかった炉跡は、この建物が無くなった後のもので、摺鉢状の穴から木炭や焼土に混じって多量の鉱滓と鞴が出土したので、鉄の精錬場と考えられています。


​末松廃寺 掘立柱建物跡1・2

掘立柱建物は、柱が礎石や土台の上に建てられず、地面に穴を掘り、その中に柱の根元を埋め込んで建てられた建物だそうです。

発掘調査では五棟の掘立柱建物跡が見つかっており、いずれも平安時代後期に建てられたもので、末松廃寺が再建された時と関連があると考えられています。

この建物の用途は明らかでは無いのですが、庶民が住んだ竪穴式の掘立小屋とは著しい格差があります。


​末松廃寺 塔趾

塔は仏陀の舎利または聖なる遺物を納めた建物です。

初重は中央の心柱を囲む四本の四天柱と外側の十二本の側柱が十二尺の等間隔で三間×三間に配置される構造です。

初重の一辺は三十六尺と大きく、白鳳時代としては異例の規模であることから、七重塔とも考えられており、高さは五十六メートルあったと推定されています。

塔趾の中央からは、塔の代わりとした平安時代前期の素焼きの瓦塔が出土しており、創建後五十年あまりで倒壊した雄大な塔は再建出来なかったことがわかっています。


​末松廃寺 塔趾

反対側から見た塔趾。

ここにかつては雄大な塔が聳え立っていたのですね(´Д` )


​末松廃寺 塔趾

塔趾の階段を登ってみました。

真ん中に石がありますね(´Д` )

心柱の礎石である心礎です。

心礎には手取川の転石と考えられている安山岩が用いられており、上部には心柱を受ける孔が作られています。

この心礎は唐戸石と呼ばれ、古くから存在が知られており、江戸時代後期の『石川訪古游記』には水田中の心礎を金沢本願寺別院に遷そうとしたが、地中にはまって動かず、運ぶことが出来なかった逸話が記されています。


​末松廃寺 塔趾

こちらが心礎ですね。

確かに孔が開いてます。

案内板が無かったら、ぱんだうっかり手水鉢と間違えてしまったかもしれません(´Д` )


​末松廃寺 金堂趾

こちらは金堂趾です。

寺院は通常、金堂・塔・中門・回廊・僧房などの建物によって構成されます。

これらの建物は粘土を盛って固めた基壇(土台)の上に建てられました。

末松廃寺は金堂を西、塔を東に配置する法起寺式伽藍構成であったことが分かったのですが、他の建物は見つからなかったそうです。

金堂はご本尊を安置する仏殿で、寺院の中心となる建物です。

この堂において、色々な法会や礼拝が行われました。

金堂の基壇は東西二十メートル、南北十八・五メートルの大きさで、まわりには素掘りの雨落溝がめぐり、創建時の屋根に葺かれた瓦が多量に堆積していたそうです。

特にこの金堂の西側で、瓦に混じって銀の和同開珎一枚が発見され、全国的に注目されました。


以上、石川県野々市市の史跡である末松廃寺跡を紹介しました。

跡地なので、原っぱと言えばそうなのですが、各場所ごとに詳しい解説があったので、とても分かりやすく、楽しめました。

北陸最古の寺院跡、手取川扇状地の開発に取り組んだ農民や地方豪族の記念碑的史跡ということで、当時に思いを馳せながら見学しました。

興味のある方はぜひ訪れてみてください。


参考:末松廃寺の各案内板