白山市 松任城址公園① 松任城の概略と歴史 | 金沢徒然日記

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日々金沢中を徘徊している暇人ぱんだが、つれづれなるままに加賀百万石の文化都市、金沢のことを書き綴ったブログ。金沢の観光スポット、神社仏閣、文化施設を深く深く掘り下げて紹介していきます。

松任城(´Д` )
現在のJR松任駅南の古城町を中心に殿町・西新町にまたがっていたお城と言われています。

現在、松任城の二の丸・三の丸・出丸などの城跡は松任文化会館・松任学習センター・千代女の里俳句館が立ち、その面影を留めてはいません。
唯一本丸跡のみが、松任城址公園として整備されております。
こちらも歴史的遺構の多くは失われてしまっていますが、当時を偲ぶ大けやきや櫓土盛り・内堀跡などが残されており、歴史性の保全を図りながら市民の憩いの場となるように整備されています。
では実際に松任城址公園を散策していきましょう(´Д` )


​松任城址公園

まずは松任城の歴史を紹介します。

松任城は、平安時代末期に当地を支配していた松任氏の館として成立し、後に一向一揆の旗本である「松任組」の本拠地として城砦の形が整えられて来ました。

天正五年(1577)に上杉謙信の攻撃を受けますが、その時の城主・鏑木頼信が和睦にまで持ち込んだと言われています。

これは松任城の南約6kmの水島付近に七尾城を目指す織田軍がすでに陣を構えていたからだと考えられています。

しかし、織田軍は上杉謙信が七尾城を攻略したという知らせを受けるやいなや、夜半に退去し始めます。

手取川は数日来の雨で氾濫しており、謙信はこの機を逃さず松任城から水島へと兵を進めます。

世に言う手取川の戦いです。


この松任城も天正八年(1580)に織田軍の柴田勝家によって落城し、鳥越城主の鈴木出羽守までもが、この城に呼び出されて謀殺されてしまいます。

日本史上類例のない、100年の長きに渡って続いた百姓の持ちたる国はついに終焉を迎え、その後は織田方の城として、さらに後には加賀藩二代藩主となった前田利長が3年、丹羽長重が11年在城し、この頃に平城として整えられました。

松任四万石として栄え、手取扇状地の中心であった松任城は、江戸幕府の一国一城政策により慶長十九年(1614)頃に廃城となりました。


​松任城址公園

園内通路バリアフリー化されてます。

桜が綺麗ですね(´Д` )


​松任城址公園

松任城にどのような建物があったのかを示す史料は確認されていないようですが、廃城の約60年後に写された「松任城古図」によれば本丸・二ノ丸・三ノ丸・矢倉台・出丸等の郭を備え、それらは幅9mから23mの水堀や、空堀・土塁により守られていました。

外堀で区画された地域は南北305m、東西301m余であったと推測されています。


明治初年の地籍図によると、内堀の幅は約20mほどと推測出来、明治二十三年頃に掘り直されて貸しボートや屋形船・釣堀として利用されていました。

昭和八年頃に埋め立てが進み、現在は道路や公園に姿を変えています。

大正二年からは、松任城址の一部は遊園地(蕪城園)として利用されるとともに、大正十三年には当時としてはモダンな洋風建築の石川郡役所が建設されました。

この郡役所はその後、郡制廃止により昭和九年からは松任警察署として利用され、昭和三十一年に警察署が八ツ矢町に移転すると、図書館としても利用されました。

その後昭和四十一年に公園整備のために取り壊され、昭和四十二年に「おがりや公園」となり、平成十九年に松任城址公園に改名されました。


松任城址公園

橋も整備されていました。

お城らしい雰囲気が出てますね(´Д` )


​松任城址公園

こちらには「松任城本丸址」と刻まれた石柱がありました。

かつてこの辺りに本丸があったのですね。


​松任城址公園 松任城略年表

こちらには松任城の歴史が詳細に記されておりました。


​松任城址公園

桜や木々が見事(´Д` )

お散歩するのに良い公園です。


​松任城址公園

桜が華やかですなあ(´Д` )

この松任城址公園は前述のように本丸址のみなのですが、結構広かったです。

かつての松任城がどれほど大きなお城だったのかが窺い知れますね。


さて、写真が多くなってしまったので、本日はここまでとします。

次回も松任城址公園の紹介ですので、よろしければまたご覧いただければ幸いです。