金沢 屋漏堂 | 金沢徒然日記

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日々金沢中を徘徊している暇人ぱんだが、つれづれなるままに加賀百万石の文化都市、金沢のことを書き綴ったブログ。金沢の観光スポット、神社仏閣、文化施設を深く深く掘り下げて紹介していきます。

加賀百万石の城下町・金沢。
歴史と伝統が息づくこの街を散策すると、思いがけず遺構や石碑を見つけることがある。
今回は金沢市立中央小学校の裏にひっそりと佇む「屋漏堂」と刻まれた石碑について紹介したい。


「屋漏堂」
小学校の裏、鞍月用水が美しい流れを見せる場所にひっそりと佇んでいる。
目立たないが、しっかりと案内板は建てられているため、その歴史を偲ぶことができる。

この屋漏堂がある場所は、加賀八家のうちの一家である村井家の上屋敷があったところである。
江戸時代の延宝年間頃(1673-1681)に千石の藩士であった佐々主殿は負債のため雨漏りしても修繕をしなかったことから、武士の品位を傷つけたとして、藩主の命により村井家で切腹した。
死後、自宅から見事に揃えられた武具や、具足櫃に多額の金子が見つかったことから、村井家当主の長道は謡曲「鉢ノ木」とよく似た主殿の生涯と「屋漏に恥じず」(詩経大雅)とも言えるその武士道に深く感銘し、自分の雅号を屋漏堂とも称した。

また中国の書聖・顔真卿は、幼少のときに孤児となり、家が貧しくて紙や筆もなく、黄土で習字・勉学に励み、ついに家の雨漏りのあとの形から書法を悟ったと伝えられている。
村井長道は、佐々主殿・顔真卿になぞらえて書斎を屋漏堂と名付け、その徳にあやかったものと考えられている。

佐々主殿が生きたのは、加賀藩五代藩主・前田綱紀の頃であった。
当時の加賀藩は文化的な事業に力を入れることで幕府の警戒を解こうとしており、戦国の遺風が薄れて豊かな文化が花開いた時代である。
このような中でも、佐々主殿は武士として油断することなく、有事に備えていたようだ。加賀藩の一藩士の生き様を今に伝えてくれる石碑である。

参考:屋漏堂の案内板