常陸の国茨城郡に足黒村(あしぐろむら)が存在したのは、新編常陸国誌によると天保年間までで、天保中に秋葉村と合併し、村名はなくなりました。この地の名を冠し「足黒神楽」と呼ばれた大神楽がありました。(奉祀する「拝領の獅子頭」の納め箱の覚書に「天保十一年・・・足黒村 宮内求馬」とあることから秋葉村併合はそれ以後であることがわかります)

 

天明五年(1785年)に水戸藩の御祭禮神楽・在々相廻候神楽の「本取」(もとどり 家元の意)を拝命しました。この時の足黒神楽当主は宮内求馬(みやうち もとめ)と申します。

 

末裔である宮内三之介老、一族である宮内さん(大正10年生)から確認できたことなども少なからずありました。

 

わたしは高校卒業と同時に水戸大神楽について研究・調査を始めました。

 

高校時代の恩師から「お前のところはなぜ「足黒神楽」というのだ、足が黒いからでないぞ、よく調べることが大事である」、とのご教示いただいたことがきっかけでした。明治以後、大正、昭和、平成、令和まで足黒神楽の最重要な「年場(としば)」の権利を名称共々、継承してきたのが柳貴家正楽家であるのです。

 

宮内三之介さんと同行して調査した当時の墓碑から、最古の人物が「元禄十四年」(1701年)帰幽であることが確認され、江戸時代末期の女性家元がこの人物の「戒名」に準じていたことからも裏付けられました。

 

初代から三代まで年代順に全て「道」の一字が戒名にあり、恵比寿さま奉祀者の人形神である「道君(薫)」に通じていると思われるのです。

 

さらに二代・三代について宮内さん(大正10年)から具体的に名前をお聞きしました。系譜が伝わっているわけではないので、

不明だらけのなか、確認、理解できたことを中心に書き記すことに腐心したのです。

 

宮内三之介さんからは直系ご先祖の「宮内靫負(ゆきえ)藤原棟貞」に関する全文書(もんじょ)を譲られました。(このなかには五十年忌帳まであり、宮内求ら参列の親族名が記帳されています)。

 

幕末前後して、宮内貞(明治二年帰幽)、宮内藤負(藤次郎)、宮内求(嘉永二年 明治十六年)らが激動の時代の当主でした。

 

(これらは旧水戸藩徳川家御用神楽家元である足黒神楽の権利を継承する正楽家の由来、歴史、見解であり家元正楽の著作を通じて全て発表済みであり無断使用厳禁です)