こんにちはyanagi(Big Spoon)です。 (・∀・)
前回の記事では、デカルトの名前なんかが出ちゃいました。
デカルトなんて高校のときに習ったけど、ワケわかんなかっ
たし~、という声もあるかもしれませんが、もうちょっとご
辛抱のほどをお願いします。
ちなみに、私は高校時代から哲学に随分傾倒していったせい
もあり、こういうネタは苦手ではないです。
( ̄ー ̄)ニヤリ
でも、このブログではあまり厳密な書き方をしませんし、議
論をある程度はしょって書いています。
このブログは哲学ブログではないですし、ユング、及び「自
己(セルフ)」元型へつながる話を書くことが目的だからで
すね~。
ですから、哲学に関してあまり専門性が高いツッコミは、ご
遠慮くださいね~(と予防線を張っておく)
( ̄ー ̄)ニヤリ
*:..。o○☆゚・:、。*:..。o○☆゚・:、。゚・:、。★゚・:、。゚・:、。☆*:..。o○☆゚・:、。*:..。
前回からの続きで~す。
デカルト当人はキリスト教の「神」を否定するつもりはなか
ったはずです。というのも、彼自身が神の存在証明を行って
いたぐらいからです。
(ちなみに、論理と理性のみによる神の存在証明は、デカル
トも含めいまだ誰も成功していません。随分昔から行われて
きたんですけどね~。私見ですが、この証明は無理だと考え
ています)
しかし、前回書いたように、当人の意図とは裏腹に、デカル
トの方法的懐疑では「神」というものは論理的に必要である
存在ではなくなっています。
更にいえば、『我思う、ゆえに我あり(ラテン語でコギト・
エルゴ・スム)』と言うことにより、『我』なり、『自我』
なり、『自分』なりは、相当狭く小さいものとなりました。
そりゃ~、疑えるもの・ことを全て疑ったわけですから、そう
なるのは仕方ないでしょうね~。
このように、デカルトが見出した近代的自我というのは、神
から離れ、非常に狭小なものになってしまいました(論理的
帰結として)。
(しかし、現在にいたるまである程度非難や批判を受けつつ
も、デカルト的な自我観は今でも強く残っています)
ま~、そんなこんなで、デカルトの影響を強く受けた近代的
自我観は、長いこと幅をきかせていました。
しかし19世紀になると、ある人が出てきて、デカルト的な
近代的自我観に修正をせまります。
それがニーチェです!
(このオッサンがニーチェです。表情からして偏屈そう~)
昨年かおととしくらいには、いくつかニーチェ関連本が出て
きて、一時期結構有名でしたよね~。
ニーチェは『神は死んだ』(哲学上の議論のはなしです~)
と主張することにより、スコラ神学・スコラ哲学、そして
デカルトの近代的自我観にも僅かながら残っていた「神」と
の接点さえも徹底的に批判しました。
それと同時に、スコラ神学・スコラ哲学やデカルトの近代的
自我観が、自我を矮小なものとして説明しているとして、そ
れらを痛烈に拒否しました。
続きま~す。。
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