文体に関する続きです。
一方、悪文で思い出される哲学の文章は、ドイツの哲学者エマニュエル・カントのものです。高校生くらいのときに買った、『道徳形而上学原論』って180ページくらいの小著がありますが、悪文度がすご~く高いです。
ただし、これの場合、翻訳書であるので、翻訳のレベルが低いのかもしれません。又、こういう本の場合、直訳にとどめることによって、あえて読みやすくはしないこともあるようです。
もう一つの哲学における悪文の例は、日本の哲学者である廣松渉の文章です。この人の文章は、はっきりいって「読みやすくしよう」な~んて観点がサラサラないことが、一見してわかります。
私が影響を受けたもう一人の日本の哲学者である大森荘蔵の文章は、「相手に伝えたい」という気概のようなものが感じられるんですけどね~。哲学の文章であるにもかかわらず、彼の文章には温かさとふところの深さのようなものが感じられます。
いわゆる悪文ではないにしろ読みづらかったのは、イギリスの数学者・哲学者・評論家であるバートランド・ラッセルの文章です。この方の専門は論理学であるので、論理的で明晰な文章です。
私が読んだのは彼のエッセイ集でしたが、論理がわかりやすい英語という言語で書かれているので、その特徴はよりはっきり感じられました。
にもかかわらず読みづらいというのには理由があります。ちょっと説明しづらいのですが、彼の文章には感情的なものというか、エモーショナルさというものが殆どないのです(これは誰かの表現の受け売り)。
たとえていえば、「数式で書かれた文章」あるいはプログラミング言語、という感じです。哲学者が書いた文章であるということを考えに入れても、彼の文章は独特です。
最後に、哲学でも法律でもありませんが、悪文界(どんな世界や?)の一人としてどうしても挙げておきたいのが、心理学者のE・H・エリクソンの文章です。
アイデンテティーとかライフ・サイクルといった考えがを提唱した人ですね。
ちなみに、私の大学での卒論のテーマは彼のライフ・サイクル論を検討したものでした(なつかしいな~)。
彼の文章も独特です。日本語訳を読んでるだけではわからないのですが、英語の原文だと、彼の文章はひとつひとつの文章が非常に長いことが多いのです。分詞構文や関係詞や入れ子構造(皆さ~ん、高校時代の英語の授業を思い出してね)がバンバン多用されることによって、一つの文章が長大化してしまうのです。この為、1ページに文章数としては3文章しかない、な~んてこともあるのです
これ、日本語で想像してみてください。1つの文章、つまり文の頭から「。(句点)」まで何個も何個も「、(読点)」があって、1つの文章が10何行にもわたる文章を!
このため、その文章の終わりにまで至るころには、その文章における本当の主語と述語が何であったか分からなくなる、な~んてこともよくあるのです。
書かれていることには興味・関心があって読んでいるわけですが、さすがにこういうのが続くとウンザリしたことを覚えています。
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(E・H・エリクソン)
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