同じ話題を話しても、誰も同じことを言わない。
これって凄いことだと思ったり。

それぞれの人が持っているものがあって、
経てきた人生があって、見えているものがあって。

そういうものが合わさって、1人が2人になって、
仲間になって、チームになって、カンパニーになって。
そうして大きな力になっていく。

小さな小さなものが、温かいもので結ばれていく。
誰かの想いや、想いをキャッチする想いや、そういうもので結ばれていく。

誰かを温めたり熱くしたりする想い。
誰かの想いに一緒に熱くなる想い。そういうものを、忘れたくないよね。

僕は、想いを受け止めてくれる仲間や、
温かい想いを投げかけてくれる仲間に恵まれています。みんな、いつもありがとう。
何かを人にしてもらったとき、
「ありがとう」と言っているか、
「ごめんね」と言っているか。

「忙しいのに頼んでしまってごめんね」
「忙しいのにやってくれてありがとうね」

うん。どっちもアリだと思う。
でも、どうせなら「ありがとう」って言いたいかな。

「悪いな・・・」「申し訳ないな・・・」って気持ちがこちらにあると、
「ごめんね」という言葉を使いがちだけれど、
どうせなら感謝で報いたいと僕は思ってみたり。

だから、
「やってくれてありがとうね」の他に、
「おかげで助かったよ」「さすがだね」などの言葉を添えて、
お礼を伝えてみたらいいんじゃないかなと、
最近は思っています。

・感謝の言葉で報いる
・やってもらったことを次につなげて報いる
これが、やってみると意外と難しい。
自分もしっかりしていないとできないことだしね。
もう10年くらい前、まだ自分が高校生くらいだったときのこと。
近所に、大ベテランの開業外科医がいました。

その先生は、どんな傷でも適切に素早く処置をしてくれました。
当時何も知らない高校生だった僕は、
「やっぱり医者は凄いな。何でも知ってるんだな」
と思っていました。

あるとき、診療してもらっているときに、
ふとそれを先生に言いました。

すると、
「いやぁ、オレだっていつも完璧じゃあないんだ。
治療して帰したあとに『あれは間違っていたかもなぁ』と思って、
何日か悩むこともある。でもその患者は来なくなる。
しばらくしてまた別の病気で来た時に、
『この間のあれどうだった?』と訊いたら、
『あのまま良くなった』と言われて、
それで自分もやっとホッとするんだ。
この歳になっても、そんなことはよくあることだよ」
というようなことを言われました。

こちらにしてみれば大変意外な回答でした。
でも、実際に自分で働いてみると、それはすごくよく分かる感覚です。

周りの友人も僕自身も同じように感じて同じように言ってます。
「あぁ自分はまだまだだなぁと感じることは日々たくさんあるけれど、
お客さんは意外と満足してくれたり褒めてくれたりしている。
だから、結局は自信を持ってやり続けるしかないのかもね」

あれだけの大ベテランの医者だってそうだったのだから、
20代のうちは、お客様に誠意を尽くしつつ、
必死に誠実に相手と向き合って自分の仕事と向き合って
いくことでしか、先には進めないんだろうと、
そんなふうに思っています。
<SNSはアイデンティティが大事なメディア>

SNSはもともと海外的な発想でデザインされている。日本の場合は、「仕事とプライベートを分けたい」という発想が強くて、分けるべきという規範意識(のようなもの)も強い。

聴いた話で申し訳ないけれど、海外の場合はそういう考え方が必ずしも主流ではないらしく、「アイデンティティ(≒自己の姿の同一性)」というものがより出ているそうだ。「SNSに書いたような仕事ぶりの私が、休日はまたこうした趣味を持っている」「休日にはこうした過ごし方をしている自分が、仕事ではこうした取り組みをしている」そんなふうな見せ方、捉え方があるようである。

<SNSと自由業は親和性が高い>

言いながら、これって自由業の生き様に似ていて、SNSは自由業者により親和性の高いメディアかもと思ったんです。

会社勤めなどをしていると、アフター5の概念があるので、「プライベートで何をしているかは職場の人には見られたくない」みたいな気持ちになる場合もあるかと思います(僕も、勤め人だったころはそういう感じでした)。「昼は部下から信頼されるエリート部長/夜は女王様に鞭を打たれる悶え狂う中年」みたいな状況だったら、より見せたくないし、見たくないですしね(笑)。

でも個人事業者や自由業などの人だと、友達と仕事をしたり、仕事とプライベートの境界が曖昧だったりといったことが非常に多いもので、それらを取り上げて記録していくことが、逆に個人のブランディングみたいになったりするんですよね。

<SNSの落とし穴>

僕は正直、ネットに書いてあることから個人について判断することがありません。
SNSは「オンライン長屋」だと思います。つながっている人が何をしているのかが分かってしまう。その一方、情報社会論の伝統的な議論を待つまでもなく、「メディアに載ったものだけが真実として記録される」わけです。2003年ごろこの議論の中で「メディア」とされていたものはいわゆる4マス媒体(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)でした。今はこれがSNSというパーソナルメディアにシフトしてきています。「書かれたものだけが真実として記録される」ということは、「書かれていないことはなかったことになる」わけです。
ブランディングの基本は、「自分に不利になることは言わない」。(発信する側から見て)正しく賢い選択です。一方、(受け取る側から見て)いくらでも装って歪曲化されている可能性がある、という意味でもあります。僕自身このことに関連して何回か酷い目に遭いました。

<究極の人間関係は対面コミュニケーション>

「究極の人間関係は対面だ」を軸に仕事をしている身として、ネットサービスは対面関係をよりよくするための補助ツールであってほしい、という気持ちは譲れません。
会わなければ、相手の表情に触れることもできないし、相手の喜怒哀楽を空気で感じることもできないし、相手の体温を感じることもできないし、セックスすることもできません。
時間と空間を共有して相手を目の前にしたときのインパクトと緊張感、安らぎと安心感は、人間にとって究極のものだと思うのです。

ネットが悪いというつもりはなくて、使い方次第だと思います。
個人的に気をつけているのは、
・誰が読んでいるか分からないということを意識する
・誰に見られても大丈夫なことを書く
・書いてあることは参考程度にしておく
・書かれていない事実の方がたくさんあるという前提でいる
・最後は本人に会って話すまで断定しない
といったことです。

善悪二元論ではなくて、リスクもうまく引き受けながら、良い使い方ができればいいなといつも思っています。テクニカルなことはあまり得意ではないですが、最低限のマインドは持って、相手も自分も不愉快な思いをしないような使い方・楽しみ方をしたいもんです。
ご無沙汰してました。
最近、FACEBOOKばっかりやってました。

こっちはけっこう頻繁に書いてます。
FACEBOOKやってる方は覗いてみて下さい。

http://www.facebook.com/yanagi6483

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‎2001年ごろに、LOVE SONGという映画が公開されました。
内容は、「87年の尾崎豊のライブに行った若者の青春映画」です。

挿入歌を唄っているのはみんなアマチュアのアーティストですが、1曲めちゃ好きな曲がありました。10年経っても忘れられなかったので、中古でサントラを手に入れて聴いてます。

歌詞が全編英語なのですけれど、すごく優しい、英語だからこそ表現できることを言ってると思います。casualsnatchという、当時大学生の2人組。物凄い才能があったのではないかと感じます。彼らが今どうしているのか知りたいです。

歌詞をぜひ紹介したいのですが、外部サイトで歌詞が載っているところがありません。ここに全編載せると著作権的にアレなので・・・。僕が勝手に日本語にしたものを勝手に載せます。

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Hello
作詞:casualsnatch
対訳:やなぎー

ベイビー 僕のかわいい人
ねぇ 僕の声が聞こえる?
ずっと君のことを待っていたんだ
あぁ ステキな君

ホワイトチョコレートみたいな肌
ザクロみたいな口
キャンディーみたいな目
きっとお父さん譲りだね
君の人生は今ここから始まったんだ Hello

こんなに恋に落ちたことなんてなかったよ
こんなに恋に落ちたことなんてなかったんだ

ベイビー 僕のかわいい人
ここに来て 一緒に寝転ぼう
君の鼓動が聞こえてくるよ
あぁ ステキなこと

瞳の奥の強い意志で 人生を切り拓いていくんだね
笑顔でみんなを幸せにできるのは お母さん譲りだね
どんな悲しみや危険が迫っても 君を離したりしないよ
一緒にいるからね

君を見ているだけで 僕の心は満たされていく
君を見ているだけで 僕の心は満たされていく
君のことが・・・大好き
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3か所くらい納得いかないところがありますね。あぁ悔しい。

頭の休憩終わり。
英語はちょうどいいリフレッシュになります。