寒い日に子どもにかけるなら、どちらの言葉がいいと思いますか?

「今日は、寒いよ」
「今日は寒いから、セーターをもう1枚着た方がいいよ」

前者は、事実を述べているだけ。
後者は、事実+どうすればいいか、を述べてます。

コミュニケーションの際、事実だけを述べられても、
・なぜそれを言われたのか
・相手はその事実をどう思っているのか
・自分はどうすればいいのか
などに迷うのは、大人も子どもも一緒です。

「事実+何か」を伝えるコミュニケーションを心がけたいものです。
(何か:自分の意見、相手にどうしてほしいか など)

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「世間は厳しい」という言葉もこれと同じで、
事実を述べているだけの言葉だと思います。

だから、子どもに声をかけるなら、
「世間が厳しい」とは別の言葉がいいのではないかと考えます。

世間が厳しいのは当たり前です。
自分以外にも多くの人が生きていて、いろんな考え方、いろんな事情があって、
それらが複雑に絡み合っているのですから。

それを「厳しい」と認識するのではなく、
「色々な人の色々な事情と付き合って生きていかなきゃいけない。
それはとても大変なこと。でも、それができる人になっていこう」
と教えていくことが、これからますます重要になるのではないかと思います。

ポジティブ提案型ワードを使っていこうじゃありませんか!
先日、アダルトビデオを観たのですけれど、
珍しくちょっと感動しました。

出ていた男優さんが凄くコミュニケーションが上手かったからです。

ある新人女優さんのデビュー作品でした。
その男優さんと女優さんは、撮影のときに初体面だったのだと思います。

男優さんは登場したときに爽やかにあいさつ。

そのあと、
「さっきの撮影はどうだったの?」
「気持ちよかったです」
「あ、気持ちよかったんだ。良かったね~」
のような、話しやすい雰囲気をさり気に作ります。

また、「今日は、○○な感じでやっていこうよ」といって、
このあとどうしたいのかがさりげなく分かるように伝えます。

女優さんの身体を触っているときも、
「続けていい?(痛くない?)」のように、相手を凄く気遣います。

また、女優さんがしてくれたことには
「丁寧だね」
「(テクニックの)引き出しが多いね」
といった、相手の気持ちが盛り上がるリアクションをします。

凄いと思ったんです。

身体を重ね合わせることも凄く密度の濃いコミュニケーションですが、
心を開く前に脚を開けないことも多いと思います。
それを、会ってから短時間で女優さんの心を開かせてしまう。
いい気持ちになれる雰囲気を作ってしまう。
Hのテクニック以上に難しいと思うのですが、
とても巧かったなぁと思って、感激しました。
コミュニケーションは、
・発信する人と受け取る人がいて成立します。
・双方がかみ合って初めてちゃんと成立します。

受け取る人が言われて嬉しいことを言えば伝わるけれど、
言われても嬉しくないことを言えば気持ちは伝わらないし、
怒らせてしまうこともあるかもしれません。

発信する側の気持ちはとても大事だけど、
気持ちをどうすれば一番うまく伝えられるかも合わせて大事です。
それは言葉の選び方だったり、
贈り物なのか手紙なのか言葉なのかなどの伝え方だったりします。

どうすれば一番うまく伝えられるかは相手や相手の状況によって変化するので、
黄金律なんて存在しません。

・相手が求めていることを伝わるやり方で伝える。
・そのために相手のことを知っていないといけない。
ということだと思います。


今日は、「モノを贈ることもまたコミュニケーション」という話が出ました。

贈り手(発信する側)と受け取り手(もらう側)がいて贈り物は成立します。

受け取り手がもらって嬉しいもの・本当に必要としているものを贈る
=発信する人と受け取る人がかみ合う 

ことが必要だと思うのです。


相手が求めているものを差し出す。
それはそんなに簡単なことではないし、
自分が満たされていないとできないことでもあります。
この点については僕自身も人様のことは言えません。
恋愛したり結婚したりする。
相手と初めて会った時は、お互いそれなりに長い時間を、
相手がいなくても生きてこられてその時点までたどり着いている。
だからこれからも、いなくても生きていけるのだろう。

少しずつ交流する時間が増えるに従って、
(互いに惹かれ合った場合の話ですが)相手がいなくなることが
寂しくなったり怖くなったり、相手の存在が不可欠なものに感じられていく。

二人で一緒に時間を分かち合うようになっていくと、
「二人で一緒に生きていく」という側面が生活の中に入り込んでくる。
すると少しずつ、助け合ったり分けあったり分かり合ったりして、
一人より二人で生きていくほうがよくなる時が来る
(個人的にはそれが「二人で生きていきたくなる時」で
あってほしいと思ってます)。
そうやって、生活上のプライベートなパートナー(夫婦など)という
関係が成り立ち始める。

長い長い時間を分けあって、分かり合って、関係を深めながら、
穏やかに時間を過ごしていく。
それが、誰かとともに暮らしていくってことなんだろう。

結婚生活は長い会話である---ニーチェ
今日(3月4日)の朝日新聞朝刊より。

大阪・橋下市長流の教育改革と、
アメリカ・ブッシュ前政権下で作られた「落ちこぼれゼロ」法が類似している。
「教育から格差をなくすという理想を掲げて学校に競争と淘汰を導入し、
成果が上げられずに見直しを求める声が強まっている。

学力テストの結果で学校を測り、成果を上げられていない学校は
統廃合や教員の入れ替えなどの措置を取る。
その結果、授業はテスト対策の内容ばかりで、
子どもが自ら考える力を奪ってしまった。
現場も疲弊して、教員の退職も多い。


という内容が、事例紹介とともに書かれています。

「競争による学校や教員の淘汰は行き詰る。それがアメリカの教訓です」
ブッシュ政権で教育調査官だったニューヨーク市立大の教授の言葉がとても重いです。



「頑張ることはいいこと」といった理念を掲げた瞬間に、
「頑張れない人間=悪」といった無意識のレッテル貼りが始まります。
でも、人の世は「100%」や「ゼロ」がありえず、
必ず一定数の「そうではない人たち」が現出するものです。
どうもこの事実を理解していない(あるいは軽んじている)制度が多い気がします。

勉強はできないよりできた方が絶対いいけれど、
大人になって必要になるのは「勉強ができるのとは違う種類の頭の良さ」です。
(例えば、「人を愛すること、人を幸せにすること」「愛する人たちと一緒に幸せになるためのお金の稼ぎ方と使い方」などなど)

学力はとても大事なんだけれど、
それは「人生の選択という、答えのない問いを考えて自分なりの正解を導き出すためのtipsや小知恵」として使われるべきで、学力だけを詰め込むというのとは違うと思うんです。

それから、勉強に取り組むのは内発的動機づけに支配されるべきで、
制度とか施設設備の前に、教員力の問題が大きいかと個人的には思います。
ここさえ何とかなっていれば、制度設計に頼らなくても、子どもは勉強します。
習熟度とか得手不得手に対してきめ細かく対応することを実現できる制度を作っていくほうが、実態には合ってるのでは、と思います。