12人産んだ助産師HISAKOさん、昔のお産ブログのまね続きです。
「助産師の名のもと、エビデンスに基づき発信する」を売り文句とし、そこに信頼をおいている人も多いようですが、引用元が呈示されているブログはほとんどなく、これもその例です。
一般的、学術的な事実をひくだけならともかく、研究の考察部分も事実のように書いたり、「自分の考え」であるかのようにすげかえたり。
引用と考察の境界はなく、エビデンスをエビデンスとして扱えていない。
世紀に近い時代と文献が残る一部地域の事象を「昔のお産」でくくり、あたかも日本中がそうであったかのように書いてしまう。
「エビデンス」ありと信じ読む人は、「確かな事実なんだな」と思い、HISAKOさんの私見を鵜呑みにする。
典型的なまねブログです。
2019-10-03
昔のお産は過酷でした。そこから見えてきたこと
元記事
豊島よし江さん
2016-01-12
江戸時代後期の堕胎・間引きについての実状と子ども観(生命観)
青 元記事
こういった中で「堕胎や間引き」が行われた.これは貧困の中で生きるための緊急避難的な面もあった
と考えられる.
赤 12人産んだ助産師HISAKOさん
当時は天災飢饉、政治的貧困がたびたび起こりました。
堕胎や間引きの慣習は、
飢えをしのぐため
生きていく上でどうしても必要なことだったのです。
漢方・ホウセンカの実・シャクヤク・ボタン・ムラサキ・はっか・するめ・蚕・唐辛子・水銀・黒鉛
避妊目的?
漢方薬、鍼灸などが用いられました。
いずれも科学的根拠に乏しく,効果はなかった.
どれもこれも医学的根拠などあるはずもありません。
迷信やおまじないのような非科学的な方法に
避妊効果はありませんでした。
また,母体に悪影響のあるものもあった.
なかには女性の身体に害を及ぼす
劣悪なものもありました。
(2)鍼灸:石門=臍下二寸,白豪・額口
避妊目的?
漢方薬、鍼灸などが用いられました。
(3)甲形(かぶとがた):(現代のコンドーム)男性が用いる.水牛の角・べっ甲・革などで作った亀頭サック,革製サック.
水牛の角、カメの甲羅、動物の革などで作った
ペニスサック(今でいうコンドーム)や
(4)御簾紙(詰め紙):(現代のペッサリー)薄紙を丸めて膣に詰める.
和紙を丸めて膣に詰める方法
(今でいうペッサリー)が使われていたようですが
(6)膣挿入薬:梅干・酢・ミョウバン(現代の殺精子剤?)
殺精子目的?
梅干しや酢を膣に挿入したり
しかし,堕胎医の処置や堕胎薬は高額で
一般には手が届かなかった.
これらは高価すぎて
一般の民に手を出せる代物ではなかったようです。
①寒い冬に冷たい水に浸かって無理やり流産させる.水風呂に入る.
水風呂に入って極端に身体を冷やしてみたり
②ホオズキの根(酸蔣根)の煎じ汁を飲む.ホオズキの茎,イノコズチやテッセンの根茎,紫草の根が用いられた.
ホオズキに含まれるヒスト二ンには子宮収縮作用がある.
子宮収縮作用のあるほおずきの根や茎を
煎じて飲んだりしました。
③腹部を圧迫する.
おなかを強く圧迫したり、
抗生剤のない時代,子宮内感染のリスクの高い堕胎よりも,出産後の間引き(嬰児殺し)の方が母体にとっては安全な方法であった.
ですが、抗生剤のない時代に
子宮内感染のリスクが高まる堕胎より、
出産後に生まれた赤ちゃんを意図的に間引くほうが
家計にとっても母体にとっても安全でした。
江戸時代には堕胎・間引きは,暗黙裡の人口調節であった.
結局、江戸時代の受胎調節の確実な手段は
『堕胎』しかなかったそうです。
上記ように間引きや堕胎が増えていくことは社会問題となっていった.人口減少は農村からの年貢を経済的基盤としている江戸幕府・諸藩にとって深刻な問題であった.そこで江戸幕府のとった対策には以下のようなものがある.
江戸幕府の対策:
・堕胎・間引き・捨子の禁止
それを問題視した江戸幕府は
産婆取り締まり規則を布告しました。
・間引きを戒めるポスター(間引き図)
・養育料を与え,間引きの防止「赤子養育仕法」
生まれた命を育てることができるように
養育費を与えるなどの政策を嵩じ
堕胎、間引きを禁止しました。
産婆は江戸時代から自立した職業「お産の専門家」としての立場を確立していたが,一方,産婆は堕胎と間引きに関わっていたようだ25).
彼女たちは、
生まれてくる赤ちゃんをただ取り上げるだけではなく、
堕胎に関わることも役目だったそうです。
3)養育料を与える.「赤子養育仕法」にみる間引き防止策
赤子養育仕法29)とは:江戸中期以降農村荒廃への対応として行われた人口の維持・増加政策の一つ.1767年(明和4)江戸幕府は「出生之子取扱之儀御触書(おふれがき)」を出し,出生の子を産所で殺すことを禁じたが,諸藩も堕胎,陰殺を禁ずるとともに,産子養育のための産着料や養育料を与えるなどの方策を講じた.
生まれた命を育てることができるように
養育費を与えるなどの政策を嵩じ
堕胎、間引きを禁止しました。
菊地32)によれば天明の飢饉では9月頃から早くも餓死者が出はじめ,山野の植物がなくなる降雪期になると食物が無くなり餓死へ追い詰められていったとある.屍肉(死体の肉)も食べるほどの飢えの中にあって堕胎・間引きは「わが身が生き延びるための止む無き選択」であったのではないか.
当時は天災飢饉、政治的貧困がたびたび起こりました。
堕胎や間引きの慣習は、
飢えをしのぐため
生きていく上でどうしても必要なことだったのです。
図4「天保荒侵伝」では人々が飢えのあまり屍
肉(死肉)を食したとする記録がみられる.この
ような時代,生活を維持するために堕胎・間引き
は不可避であったのかもしれないと考える.
堕胎や間引きの慣習は、
飢えをしのぐため
生きていく上でどうしても必要なことだったのです。
鬼頭33)によれば,江戸時代の出産のうち10~15%が死産であった.
江戸時代には、
出産できても10~15%が死産でした。
さらに1歳までの乳児の死亡率が特に高く,
5歳までの幼児の死亡率は20~25%であった.
1歳までに亡くなる子も多く、
5歳までに10人中2~3人が亡くなりました。
医療が未発達のため母親自身の死亡,新生児死亡が高く,生きるか生きられないかの瀬戸際にある新生児は人間としての尊厳や権利が与えられなかったのかもしれない.
生きるか生きられないか
運命の分かれ目
ギリギリの世界をさまよっている新生児には
人としての尊厳や権利は
認められていなかったのかもしれません。
