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SC神戸中国語スクール 京都校

全くのゼロから、ビジネス会話、通訳レベルまでしっかりと学べる中国語スクール、SC神戸中国語スクールの京都校のブログです。

”『学力喪失ー認知科学による回復への道筋』今井むつみ著のご紹介”へのコメントから

でご紹介した今井むつみ先生の著作の付録に



「英語の学習をいつはじめるか問題」への考え方

があります。

もともとこの本は「我が子をどのように育てたらよいか」についての答えとして書かれています。
その答えとして今井先生の答えは以下です。

 テクノロジーがどう変わっていき、時代がどう変化するか見通せない中で、わが子をどのように育てたらよいのでしょうか。この問いに対する答えは明確です。どのような状況にも柔軟に対応できる思考力を持ち、何歳になっても新しいことを自分で学ぶことができる人間。一生学び続けることができる人間。そういう人間が、これからの社会を「よく生きる」ことができます。
(はじめにより)

さらりと書かれていますが、この答えは今井先生が専門とされる認知科学、発達心理学のこれまでの研究結果を踏まえた答えだそうです。
続いて次のように書かれています。

大人が躍起になって教えようとすればするほど、小さい子どもは、学ぶことに対するワクワク感を失ってしまい、自分で考え、学ぶことができなくなってしまいます。
(はじめにより)

では、どうすればいいか?何が必要なのか?
今井先生は「自分で学ぶ力」が必要だと言います。

自分で学び、常に知識をアップデートできないと、技術の変化に取り残されてしまいます。そして、自分で学ぶ力を育むためにとても大事なのが、「ことばの力」なのです。
(はじめにより)

そう、だれもが自分で学ぶ力をもっている。のですが、植物が育つのには水が欠かせないように、自分で学ぶ力にはことばの力が欠かせない。

でも、

だからといって、大人が子どもの脳にことばを入れることは不可能。子どもはことばを自分で考えて覚えるしかない。



自分で学ぶ力には「ことばの力」が欠かせない。
では、「ことばの力」って何でしょう?それは、

生きた知識だけが「ことばの力」になる

とのことです。

 暗記しただけの使えない断片的な知識を「死んだ知識」と呼びます。その逆に、必要な時にすぐに取り出せて使える知識、他の知識と組み合わせて新たな知識を生むことができる知識を「生きた知識」と呼びます。母語の知識はまさに「生きた知識」の代表です。子どもは覚えた単語や文法の知識を自分でどんどん組み合わせ、自由自在に話すことができるようになります。つまり「生きた知識」を成長させていくことができます。
 英語を学校で学んでもうまく話すことができないと思っている読者は多いと思います。なぜでしょう?単語と文法をバラバラに教えられ、それぞれをべつべつに暗記しても、その暗記した知識を、どのように組み合わせて文を作るかは、教えてもらえないからです。つまり、英語が使えないという人は、「死んだ知識」になってしまっている可能性が高いのです。
 母語では覚えたことが自然と「生きた知識」になるのに、外国語では「死んだ知識」になりがちなのはなぜでしょうか?実はこの問題を考えることは、「どうしたら英語ができるようになるのか」という問題はもちろん、子どもの思考力と学力をどうしたら伸ばすことができるのかという、とても大事な問題にも答えをくれるのです。
(はじめにより)

長い長い前置きでしたがやっと「どうしたら英語ができるようになるのか」が出てきました。
そして、その答えはこの著書が伝えようとしていること。つまり、

母語が育つ乳幼児から、抽象的な言葉を使い始める小学校中学年くらいまでの子どもを育てるご両親向けに、子どもの言葉の力をどう育てていけばいいかを伝える本です。この本では「生きたことばの知識」を覚えていく仕組みをわかりやすく解説します。同時び、ことばといっしょに思考力がどのように伸びていくかも解説します。そして、ことばの力と思考力をいっしょに伸ばすために、大人が子どもに何をしたらよいのかもお話ししていきます。
(はじめにより)

大人も子どもと同じように、単語や文法などを暗記する(「死んだ知識」にする)だけではなくこの本で解説されている「生きたことばの知識」を覚えていく仕組みがわかればことばといっしょに思考力も伸ばすことができるといいます。

今井先生がこの本で「皆さんにどうしてもお伝えしたいこと」が6つあるとのことです。

・ことばの知識も、算数などのことば以外の知識も、大人がフラッシュカードなどを使って教え込み、外から入れようとしても「生きた知識」には育っていきません
・子どもに身につけてほしいのは、外から入れようとした「使えない知識(死んだ知識)をたくさん持つことでなく、思考力です。
・思考力は単に知識を持っていることではありません。知識を使って問題の意味を考え、最善の解決策を考えて、結論を引き出す能力(問題解決能力)です。そのためには、多くの「生きた知識」を持ち、それを必要な時に素早く記憶から取り出したり(情報処理能力)、必要な知識と今は必要でない知識を選り分け、不必要な情報を無視する能力(実行機能)も育てなければいけません。これらの能力も思考力の大事な要素です。
思考力はことばの力とタッグを組んでいっしょに育ちます。乳幼児期に自分で考えてことばを覚えた機会が多いほど、思考力は育ち、伸びます。
小学校以降の学びには、日常会話で使うことばだけでなく抽象的な意味を持つ言葉が必要になってきます。しかしそれらのことばも、大人が「外から入れる」ことはできないので、大人との会話や読書を通じて自分で抽象的なことばの意味を考え「生きた知識」として持っていることが必要です。
・だから乳幼児期から児童期にかけて、子どもがことばにたくさん触れ、ことばの意味を自分で考える機会をつくってあげることが、とても大切なのです。それが思考力を育て、自分で学べることにつながります。

ということでこの『親子で育てることば力と思考力』という本は


この6つのポイントが「なぜ大事なのか」を説明し、具体的に「ことばの力」と「思考力」に磨きをかけるための方法をお伝えします。なぜ大事かをご理解いただくことで、本書で提案したこと以外にも、読者ご自身のお子さんに合ったさまざまな方法を編み出し、実践していっていただけることと思います。

(はじめにより)


ということでこの本は書かれているのですが、その最後の付録としてあるのが、


「英語の学習をいつはじめるか問題」への考え方


なのです。


 多くの人たちは、いろいろなところから入ってくる断片的な情報を自分の子どもに当てはめてよいのかどうかがわからず悩んでいるように私には思えます。

 読者のみなさんに知っていただきたい、とても大事なことがあります。そもそも「小さい子どもは英語の発音や単語を覚えるスピードが速い」ということと、「小さい時から英語の勉強を始めればだれでも英語が自由に使えるようになる」ということはまったく別のことだということです。多くの人はこれを混同しています。

 小さい子どもは大人よりも外国語を覚えやすい。これは大方間違いではありません。しかし、だからといって、大人になったら外国語をお覚えられない、とか、どんなやり方をしても子どものうちなら英語を楽にマスターできる、ということにはならないのです。

 大人になってからでも、二つのことができれば、プロフェッショナルレベルの英語を身につけることができます。その二つとはーー


①ことばのセンス

②自分で学び方を考えることができる力





です。この二つがあれば、英語はもとより、どんな外国語でも身につけられます。だから、幼児期には、英語を「生きた知識」にするために母語で「ことばのセンス」をつけていくことが大事なのです。


さらに、


 外国語の「よい」学習のしかたは一つではありません。たった一つの正解などないのです。子どもの置かれている環境によります。子どもの興味、関心にもよります。一番大事なのは、自分の子どもが今、何に一番興味を持って何をしたがっているかということを、子どもをよく見て、くみ取ってあげることでしょう。


※ここで今井先生は:


英語を使って世界で活躍するためには、中学でも高校でも大学でもーー社会人になっても(ここが一番大事!)ーー英語を使いながら勉強しつづける必要があります。5歳でどんなにきれいな発音で流暢にあいさつや決まり文句でコミュニケーションをとれたとしても、5歳児は5歳の知識の範囲でしか話せません。むしろ高校や大学での学習や、学校を離れてから自分でする学習の質と量がプロフェッショナルレベルに到達するかどうかを決めます。

 子どもを英語の達人にしたければ、小さいうちに「英語の知識を入れる」より、「ことばのセンス」と「自分で学び方を考えることができる力」がつくよう、子どもを助けてあげましょう。そのとき、母語をないがしろにしてはいけません。


と説明され、この付録の最後には:


英語を使ってことばの探求


 英語で学習したことを「生きた知識」にして、英語を実際に使って抽象的な内容を考えたり、表現したりできるようになるために有効なこと。それは、英語を「暗記する」のではなく、日本語との違いを探求して楽しむことです。知識を深めるためにとても重要なのは「比べること」です。英語と日本語を比べることで、これまで気がつかなかった日本語の難しさや特徴に気づくことがあります。

 例えば、日本語では「もらう」に対することばに「くれる」と「あげる」がありますね。英語ではどちらも give を使います。つまり「あげる」 = give ではない。その気づきは、英語を学ぶときにもっとも大事な気づきにつながります。日本語と英語を比べることで、日本語、英語という個別の言語を超えた「ことばのセンス」を磨いていくことができるのです。お父さん、お母さんといっしょに日々の会話の中でことばの不思議を見つけ探求してみましょう。「ことばのセンス」は知らないうちに育ちます。

 日本語を大事いしながら外国語を学び、ことばのセンスを育てて大きくなったら外国語の達人になる。その準備をするにはどうしたらよいか。このことは、別の本で詳しくお話ししたいと思います。


※山岡注:「別の本」とは以下でしょうか?




※「ことばのセンス」について以下の説明があります。


ことばのセンスが育っているかがカギ


 ここで、学校の学習、自立した学習ができるためには、どのようなことばの力が必要なのか短くまとめてみましょう。


・ことばがそのことばと関連することば(似た意味のことばや文の中でいっしょに使われることば)と関連づけられている。

・ことばの意味に広がりがあり、一つの単語について、さまざまな使い方を知っている。さらに、文脈にあわせて柔軟に意味を考え、単語の意味自体をアップデートしていくことができる。

・抽象的なことばの意味を、しっかり本質まで理解することができる。その知識を使ってさらに抽象的な概念と、それを表すことばをどんどん増やしていくことができる。


 こういう力をトータルで、私は(※山岡注:今井先生ご自身のこと)「ことばのセンス」と呼んでいます。この「ことばのセンス」は、外国語の学びを「生きた知識」にするためにも、とても大事なものです。これがないと英語の勉強にたくさんの時間を使っても英語は「死んだ知識」で終わってしまうかもしれません。


さて、いかがでしょうか。

「ことばのセンス」と「自分で学ぶことができる力」。

この二つは母語である日本語だけでなく、外国語(例えば英語)の達人になるために必要。

このことが、




の「はじめに」で次のように書かれています。


 本書の第一の目的は、認知科学で知られている「学習の法則」を外国語学習に当てはめ、さらに英語の特徴を勘案しながら、英語学習の合理的な学習法を提案することである。「合理的な学習法を提案する」だけでなく、「その理由としくみを解説する」ということが本書の特徴で、これまでの英語学習の数多(あまた)の書物と違うところだと自負している。

 なぜ、「理由としくみ」が大事なのか。「⚪︎⚪︎法」の結論を教わるだけで、なぜその方法がよいのか、そのしくみを理解していないと、その方法を使える範囲が限られてしまい、実用に足るレベルまで自分を広げていくことができないからだ。なにしろ言語の習得には、一筋縄ではいかない、複雑で膨大な知識が必要なのだ。しかし、理由としくみを知っていれば、教わった方法をいかようにも発展、応用できる。

 ただし、応用できるようになるためには練習が必要だ。どんな分野であれ、いくら理屈を研究し、理論を究めても、練習を積み重ねて身体(からだ)で覚えなければ達人にはなれない。外国語も例外ではない。そして、英語に限らずどの言語でも、言語を自在にアウトプットするためには、語彙が欠かせない。もちろん、文法の知識も必要だ。辞書を1冊丸暗記しても、文法を知らなければその言語は使いこなせない。しかし、語彙と文法をバラバラに完璧に覚えても、言語は使えるようにならない。文法の知識が語彙の中に融合されていなければ、言語を自在に操ることは不可能なのである。


今、書籍でもネットでも「どうすれば英語をマスターできるか」という情報がたくさんあります。

その中で、今井先生は科学的な考え方を用い、実験を行い自らの仮説が正しいかどうか検証されてきています。

もっとも、学習塾に個別指導があるように、人はそれぞれ個性があり、得意なことも違えば考え方も違うので、今井先生の提案される方法が全ての人に当てはまるということはないでしょうが、それでも、実験とデータに基づいた学習方法なので多くの方にとって参考になると思います。


私も引き続き学び続けます。

そしてこのブログを読んでいただける方とともに少しでも自分自身をより良い方向へと成長させていきたいと思います。









ブログに友人からコメントをいただきました。

中国のことばを紹介していただきました。それは、


“师傅领进门,修行在个人。”

(师傅领进门,修行靠个人。とも)


意味は以下をご覧ください。


中国のことわざ031:师傅领进门,修行在个人


英語にも次のことばがあるそうです。

(アドラー心理学の「課題の分離」の説明で使われるそうです。)


You can take a horse to the water, but you can't make him drink.


こういった「ことば」というのは、色んな解釈があるでしょうが、私は、今井むつみ先生が何度も繰り返してその大切さを強調されている「誰もが持っている『自分で学ぶ力』」を連想しました。


⚪︎だれもが自分で学ぶ力を持っている。自分で学ぶにはことばの力が欠かせない。

          ↓

⚪︎大人は子どもの脳にことばを直接入れることはできない。

          ↓

⚪︎だから、「引っぱりあげ」ではなく「足場かけ」で子どもの自力の学びを支援。


人というのは「教えること」が大好きです。

それは「人の役に立ちたい」という想いから良かれと思ってのこともあるでしょうが、「教えること」で「自分は偉い」とか「自分はすごい」と誤解してしまうこともあると思います。

そのことの戒めとともに、子どもや人が持っている「自分で学ぶ力」について、紹介された今井むつみ先生の著書を紹介します。




「ことばは思考の道具」


これは大学の恩師に教えていただいたことですが、この本の中でも、ことばの力と考える力について親が子どもに対してどのように接すればよいかについて詳しく教えてくれているのですが特に、


教えるより「足場かけ」


ということばに惹かれました。


今井先生によると、「足場かけ」とは、


学び手が自分で推論して発見できるように手助けすること。


であり、


子どもがもっともよく学べるのは、大人から直接知識を与えられるときではなく、自分で発見したとき。


だと言います。でも、


しかし、子どもはなかなか自分ひとりではそれができないかもしれない。でも、その時に大人のちょっとした工夫で自分では見つけられないことを見つけることができる。自分ひとりだと推論できないことを、推論できるようになるのです。


人に何かを教える立場の人は、「教えること」で自己満足に陥ることなく、「足場かけ」というヒントで人が本来持っている「学ぶ力」を引き出す手伝いをすることこそが役目。

そんなことを考えているとふと思い出したのは、教育という言葉の意味。


英語の Education は「(能力を)引き出す」だったと思い、ネットで調べると本来の意味はそうではないという記事もありました。


教育について考える際、言葉の意味・語源にさかのぼると見えてくるものがあります。やや手垢にまみれた感はありますが、今回は「教」と「education」の比較から始めます。


「教」の文字は、「爻」は校舎、「子」はこども、「爻に攴(鞭)を加えて、学舎で学ぶ子弟たちを長老たちが鞭(むち)で打って励ますこと」を示すとされています(1)。このことは、古代中国では教育には一定の「強制力」が伴うものと考えられていたことを示しています。「愛の鞭」という言葉にも通じるものを感じます(なお、「鞭」と言えば、教員になることを「教鞭をとる」と表現しますが、これは生徒を打つための道具というよりも、黒板を指示する棒と解釈するのが無難のようです)。


一方、「education」は、ラテン語で「e-」が「外へ」を意味する接頭語、「ducate」が「引き出す」ことを意味するという説が言われており、これまで私も「教育とは、内にあるものを外へ引き出すこと」のように理解していましたが、今回改めて調べたところそれは誤解であるとの指摘を見つけました。つまり、本来の語源であるラテン語の「educare=養う)」が「educere=引き出す)」と混同され、勘違いされたという指摘です(2)。どうやら後者が有力であると思われます。その真偽はとにかく、前者のような解釈が広く流布してきたのは事実です。


「教育とは何か」を考える時、この「外から内へ」か「内から外へ」かが一つの対立軸・論点として想定できます。あえて単純化すると、前者は「空の容器に何か液体のようなものを注ぐ」イメージ、後者は「内側に隠れたものを見えるようにする」イメージでしょうか。つまり、「何もないところに付け足す・与える」のか、「最初からあるものを引き出す」のかという対立です。


もちろん、どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言いたいわけではありません。教育の営みは、時々の状況に応じて変化してしかるべきですが、「本質は」と問われれば、私は、(たとえ誤解であるにせよ)「education」の考え方──教育とは子どもの内側にあるものを引き出す行為であること──こそが教育の「本質」であると主張したいと思います

「与える」のか「引き出す」のかー教育の「本質」とはー立命館守山中学校・高等学校

より)


そして、このサイトで紹介されているTEDが子どもたちが本来持っている「自ら学ぶ力」の証明だと思います。




長くなってしまいました。
でも、これが今井先生の言う、「生きた知識」であり、単にことばを記憶するだけではなく、ことばを深く、広く考えて「生きた知識」にしているように思います。



私がなぜ「教える」ことにここまでこだわって来たのか?

もちろん、自ら中国語を教えるということをして来たこともあるし、中国ビジネスで中国人に日本の考え方や技術を教えて来たということもありますが、強烈な経験があったのです。

それは、もうかなり前のことです。

大学の後輩からの連絡で、ある高校で臨時の授業をしたことがあります。

その高校では中国語の課程があり、中国語を学んでいるクラスで授業を行ったのです。

普段なら大学の教授のような優秀で有名な方が担当されるのですが、その時は生徒の一部に問題があり、私が受け持つことになったのです。


受け持ったクラスは2つ。

1つは一年生。

もう1つは二年生。

授業は1月だったと思うので、一年クラスは中国語を学んで10ヶ月ほど、二年生のクラスは1年10ヶ月ほど。

授業の内容は任されていました。

そして当日、まずは1年生クラス。

クラスは40名ほど。

まずあいさつをしたのですが、数名、机に突っ伏しています。

その後、生徒たちの反応を見ながら授業を進めたのですが、数名の生徒は机に突っ伏したまま。

こちらから話しかけても反応はなし。

数名の生徒以外は積極的に話を聞いてくれ、授業に参加してくれていますが、私はどうしてもこの数名の生徒が気になりました。

積極的に授業を聞き、参加してくれる生徒だけに授業をすればよかったのかも知れません。

でも、私はどうしてもこの数名の生徒が気になり、まともな授業ができなかったことを今でも昨日のように思い出します。


私のことが気に食わない?

いえいえ、普段担当しているのではなく、臨時の特別授業です。

私のことが気に食わないわけはないと思います。

何らかの理由で中国語そのものに興味をなくしている。

きっとそうなのでしょう。


机に突っ伏したままの数名の生徒は結局授業の最後までそのままでした。

気になりながらも声をかけて理由を聞くこともできず授業を終え、その次に2年生を担当し臨時の特別授業を終えました。


2年生の授業では1年生のような数名の生徒の授業のボイコット?はありませんでした。

1年生の授業を参観していた後輩から「先輩!日本語で喋りすぎ!」とのアドバイスで、ほぼ中国語で授業をしたのですが、それにしても1年生の授業でのことが気にかかって仕方がありません。


このような経験をしたことがその後もずっと気になっていて、「教えること」について考え続けることになったのです。


※「教えること」ことは「伝えること」ではないかと感じていたので、次の本を読みました。






そうなのです。

教えようと思っても伝わらなければ意味がありません。

そのために脳科学に関する黒川伊保子さんの著作を読みあさり、竹林正樹氏の行動経済学も学びました。

そして、今、今井みつみ先生の著作を読みあさっています。


その今井むつみ先生の近著がこの『学力喪失ー認知科学による回復への道筋』です。




カバーの見返しには次のようにあります。


乳幼児は驚異的な「学ぶ力」で言語を習得できる。しかし学校では多くの子どもたちが学力不振に陥り、学ぶ意欲を失ってしまう。なぜ子どもたちはもともと持っている「学ぶ力」を、学校で発揮できないのか。「生きた知識」を身につけるにはどうしたらよいのか。躓きの原因を認知科学の知見から明らかにして、回復への希望をひらく。


さらに帯には次の一文が紹介されています。


しかし、人間の子どものもつ「学ぶ力」を持ってすれば、喪失してしまった学ぶことへの意欲は、大人の工夫で回復することができるはずだ。乳幼児期の子どもたちが自らの「学ぶ力」で言語と概念を習得していく姿をずっと目の当たりにしてきた筆者にとって、それは揺るぎのない確信である。そのために必要なのは、大人が、自分たちが(あるいは社会全体が)有している

「学び」や「知識」についての誤認識に気づき、子どもたちの躓きの原因を理解したうえで、子どもたちによりそい、子どもたちが本来持っている「学ぶ力」を引き出せるように教育を変えることなのである。

(「はじめに」より)


今井先生には共著ですが次の著作もあります。




今井先生の知見を学び、活用することができれば「落こぼれ」と言われ本来持っている「学ぶ力」をなくしている子どもたちを救うことができる。本来の意味での「教える」ことができるのかもしれません。

そして学校教育だけでなく、中国語やその他外国語を「教える」ことにも活用できるのかもしれません。


ちなみに私も算数の文章題は苦手でしたし、分数で躓きました。