SC神戸中国語スクール 京都校

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和田秀樹医師の『80歳の壁』

私、2024年7月で64歳になりました。

80歳にはまだあるのですが、義理の母は80歳を越えたので参考になるかと思い購入した本、和田秀樹医師の『80歳の壁』に次の記載があります。


そもそも、日本人は前頭葉を使わない国民性だと言えます。学校にしても、会社にしても「言われた通りに動けばいい」という風潮があるからです。本当の意味で頭を使っていない。たとえば、中学・高校の試験は知識重視。大学教育も本来は高校までに習ったことを疑ったり、議論したりする場なのに「教授の言うことが正しい」と教える。会社に入っても上意下達で、考えて行動する人材は枠にはまらず嫌われる。前頭葉を鍛える機会が、極端に少ないのです。

そういう国民性だから、本をたくさん読んでいる人が「頭がいい」と言われるわけです。本当は、本を読んで物知りになった上で、その知識を加工したり、自分の意見をつくったりすることが大切なのに、それをしない。前例踏襲になりがちで、応用力や加工力が低くなってしまうのです。

(中略)

前頭葉は人間の頭の中で一番大きな場所なのに、じつはほとんど使っていない。だからこそ、80歳からでも鍛えれば、機能が上がることは十分に考えられるわけです。

人間の脳はよくできており、無数の細胞がネットワークを構築して働いています。使っていないネットワークは消失し、くり返し行動すれば何歳になっても新たなネットワークを新設できる。つまり、新たな能力も獲得できるというわけです。

(『80歳の壁』第3章 ボケ・認知症の壁を超えていく P162〜163)


日本での教育が知識重視で自分の頭で考えること少ないという指摘ですが、これは語学でもその傾向があると思います。


会話を鍛える講座以外は、講師や教師がテキストを用意し、そのテキストにある「知識」を詰め込むのが中心だと感じています。

そして、受講者は教えられたことを鵜呑みにすることに専念する。


本来なら、和田医師の言うように、(本を読んで)物知りになった上で、その知識を加工したり、自分の意見を作ったりすることが大切なのに、それをしない」。

特に「くり返し行動する(外国語会話なら実際に「知識」を使い、会話すること)」より「知識」を詰め込むことに集中するから外国語を使えるようにならないように思います。


本来なら人は知らないことを知ることは気持ちのいいことのはず。

そして、自分の頭で考えることで、その「知識」を「知恵」に変換し、行動に役立つようにすることで人の役に立ち、幸せや満足感を感じるのではないでしょうか?


知識の詰め込みだけではなく、それを自分の頭で考え、役立てる。


外国語だけではなく、すべての学びがこのことを大切にすることで成長につながるように思います。


今、何かを学んでいる方、どうか自分の頭で考える習慣を身につけてください。

また人は死ぬまで学びだと思います。

日々、学び、それについて自分の頭で考え、知識を知恵に変換し、実りの多い人生にして行きましょう!


中国語や日本の技術を教えていてずっと考えている「教える」ってどう言うことなんだろう?と言うこと。

色んな講師の教え方を見学し、教授法を学び、自らも試行錯誤してきたのですが、未だに答えを探し続けています。


先日、NHKの新プロジェクトXの再放送を見る機会がありました。

「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」

多くの方がご存知の黒柳徹子さんが学んだトモヱ学園を創立した小林宗作氏が紹介されていました。


小林氏は音楽大学を卒業後、教師となりますが、当時の状況は「一斉教育と模倣」であり、絶望しヨーロッパに赴きリトミックに出会うのですが、次のように感じたとのことです。


「ここでは教師が知識や技術を教え込んではいない」

「それでも学生は自分の力で自らの表現を培っている」

「教師の役目は子どもの好奇心をくすぐり自らのリズムで学べる環境を作ることなのではないか」


「一斉教育と模倣」


今の学校教育と本質的には同じだと思いますし、「模倣」については中国語など語学教育では当然のこととなっているのではないかと思うのです。


でも、小林氏は次のように思い、一度は辞めた教職に戻ります。


「どんな子どももすばらしい才能を持っている。それを育てる教育をやってみたい」


小林氏のこの考えは今も引き継がれています。



国立音楽大学附属幼稚園のサイトで紹介されている小林宗作氏の言葉です。


私はこの「保育」と言う言葉を「教育」や何かを教えること全般だと思います。


どのように「教えるか」という技術や手法も大切だと思いますが、それだけでは片手落ちだと思うのです。


私は以前、ある高校で中国語の模擬授業をしたことがあります。

一年生と二年生の授業だったのですが、最初の一年生の授業に出て愕然としました。

三十数名のクラスでしたが、数名が机に突っ伏して寝ているのです。


トモヱ学園では;


・力を引き出す。

・誰も取り残さない。

・子供のための学校。

・(教育とは)20年先を見て行うもの。


「誰も取り残さない」のが教育。

でも、今の学校教育ではそうはいかない事情があるのでしょう。

また、中国語教室や講座・教育現場でも、「教える」とは言いながら、実際には知識や技術を教え込んでいるだけで、一人ひとりが持っているすばらしい才能を引き出そうとしている教職者が果たして何人いるのでしょう?


このことは語学を教える人だけではなく、教育に携わる人、または誰かについて学んでいる人、または学ぼうとしている人にぜひ考えて欲しいと思います。


トモヱ学園の小林氏の思いを引き継ぐ国立音楽大学附属幼稚園の林浩子園長は番組の中で次のように言っています。


どんな子どもでも必ずいい所があるに違いないから、子どもの可能性を信じる。

私たちが子どもの声に耳を澄ましたり、子どもをしっかりと丁寧に見ていくことで大人が気付かされていく、それが大事なんじゃないかなと思います。


小林氏は黒柳徹子さんが入園される時、4時間もの間、黒柳さんの話すことを聴いてくれたと言います。


教えると言うことは知識や技術を説明するだけではなく、それがどのように理解されているのか、ちゃんと理解し、身についているのかを確認するところまでして初めて「教える」と言うこと。

そうではないかと思う今日この頃です。

中国語を学び始めて40数年。

中国語を教えて20数年。

今は、中国語から離れてタクシー乗務員ですが、たまに中国語圏のお客さんが乗車された時には中国語が役に立っています。


今年は体調が思わしくなく、ネットでの活動もしていなかったのですが、仕事を休み、ぼーっとラジオを聴いていると、NHKのラジオ講座で英語講座をしていました。

そして、思ったのは・・・


「出来過ぎ」


NHKで講座を持つのですから十二分に準備をされているのがよくわかります。

でも、今の私が感じるのは「出来過ぎ」だと言うことです。


理論的にあまりにも完ぺきで、スキがないのはいいことなのでしょうが、果たしてこれで十分な学習効果が得られるのだろうか?

そんなことを頭をよぎりました。


思えば、何かを人に教えようとすると、一生懸命に教授方法を学び、研究し、どのように教えたらいいかをとことん考えて、完ぺきなものにしようとする。


私自身そうでした。


でも、63歳になり、中国語から距離を置いて思うのは、もっとも効果的な教授法とは、教える側が技術的に、理論的に考えることは必要であっても最終的には学ぶ方が自ら考え、試行錯誤することがもっとも効果的ではないかと言うことです。


「誰かに学びたいと思う」


何かを学ぼうとすると誰もがそう思うでしょう。

そして、より効果的に学ぶために良い指導者を求める。

指導者に学習者の要望に答えようと必死になる。


最初はこれでいいと思います。

でも、誰かについて学ぼうとする。そのことはあくまでも「受け身」。

どのようなことであっても学ぼうとするのは、日本の武術でいうところの「守破離」でなければ十分な効果は得られないと思うのです。


最初は「守」。

教えられたことや学んだことを素直に守り、身につける。

この時にはまだ経験がないので、自分勝手な判断はしない方がいいでしょう。

でも、いつまでも「守」では、教師なり、先生なり、指導者を超えることはできません。

自分で十分に経験を持ったら、次に「破」。

教えられることに疑問を持ち、自分なりの理解をし、自分なりの学び方、身につけ方を考えるべきでしょう。

次に「離」。

自分の個性を活かすようにするには、やはり教えられたこと、学んだことから離れ、独自性、個性を発揮しなければ本当の意味で学んだことにならないような気がします。


中国語に限らず何かを学ぶのなら、このようなことを教えてくれる指導者につくのがもっとも効果的。

そんな気がする今日この頃です。