「〇〇してやったんだから感謝しろよ」
「〇〇したんだから謝れよ」
「俺は〇〇なんだからもっと敬えよ」
日常でこういったことを言われたり、ほかの人が言われているのを聞いたことありませんか?これについて今日は思うところを書いていくよ。この件については、今後自身が子育てする上で大事なことなので、しっかり息子に伝わるように教育していきたい哲学というか理念だから、自分で後から見返して心乱れたときに立ち戻れるように書き留めておこうって目的が強い。
だから、誰かが読んで楽しいとか面白いとかいった内容じゃないかもしれないし、読む人によっちゃきれいごとだとか甘いだとか思うかもしれない。でも、恐らくそう思う人こそよくよく考えて欲しいテーマだったりするし、何かしらの情報を得たときに自身の見解を持つために基礎となるものの見方なんじゃないかと思う。
結論から言うと、謝罪・尊敬・感謝は自発的・内発的なものなので、他人にそれを求める行為は端的に言って卑しくてとても醜いです。だから冒頭に挙げたような物言いは人間の尊厳を損なうので使うべきでないです。
普遍的にそうと言い切るのは少し乱暴なので限定的な条件を付けるなら、少なくとも日本ではそうといえる、このように思っています。
まあ、正直なところ私自身はある程度確信を持って世界共通と思っています。ただ、思想信条を納得するのもまた自発的・内発的である必要性があるので言い切り表現にするのは私自身少し抵抗あります。
深堀りしていきます。何故それらは自発的・内発的じゃないといけないと思いますか?それは、自発的・内発的でないと納得感を伴わないので本質にアプローチできず、極めて表面的で軽薄な誰のためにもならないコミュニケーションだからです。
例えば、ある仕事上のミスで取引先を怒らせたとします。その解決のためにはそのミスでどのような損失をもたらしたのか事実関係を把握し、その怒りの正当性を納得をした者でないと本当の意味での謝罪はできないし、すべきでないと考えます。
何故なら、仮にそのミスが正式書面の重要でない部分の誤字・脱字の類だった場合、取引先は闇雲に怒りの表明をする前に正しい表記はこうでその修正をお願いします、ここが整わなければ社として調印が難しいと意思を伝えるだけで、謝罪と尊敬(ここでは素早い修正対応)を相手に要請しなくとも受け取ることができるからです。
ですが、ここでこんな書面もまともに用意できないのかとクレームを入れてしまうと、対応者次第ではそれほど大きな問題と考えず不満を漏らすことになります。更にまず謝罪だろうと相手に求めてしまうと何をどのようにしたらいいのかの事実上の問題点が不明のままなので、納得感がなく不服のままに謝罪に応じるかさらに拗れるかの2択が待っています。
多くの人が思うだろうことは、謝罪すれば丸く収まるならそれでいいじゃんってところなんでしょうが、どんなに小さなことであれ納得感をないがしろにすべきでないと私は考えます。
上記の例では、不服のままに謝罪に応じることで双方にデメリットが生じます。取引先側が抱えるデメリットはシンプルに面倒な奴だなと思われ、今後の取引でも一歩引いた扱いをされるので気持ちの良い取引を今後少しずつやりにくくなります。
謝罪に応じた側は、不服を押し殺しているので今後同じ内容のミス発生を軽視するので、根本解決に向けた取り組みをせず同じミスについて何が問題なのか納得いく説明してくれる出会いに恵まれるまで改善の機会を失います。
小さなことのように思えるかもしれませんが、双方が抱えた不服は確実に関係性の悪化の種を蒔きますし、お互いが上下関係やら利害関係やらでお互いに優劣をつけるために不遜をはたらき続けることを助長します。
もっとドぎつい表現をするなら『相手をコントロールしたい』とより強く感じるようになります。私が卑しく醜いと感じるのはこの部分です。『相手をコントロールしたい』というのは、言い換えれば『相手は自分を満たすためのもの』ということで、自分が満ち足りるのに他人の犠牲を必要としているという点が非常に非情で異常なため、そこには卑しさと醜さが歴と存在します。
卑しくあれば当然自身の尊厳も自由も自ら蔑ろにしているに等しく、生きづらさを感じるでしょうし生きづらさを嘆く前に顧みる部分が次第に見えなくなり自分を見失います。自分を見失うと、守るべき自身の尊厳も見失うので自身の見解を持つこともなく表面上の力関係のままに『相手を支配する』と『相手に支配される』の関係性のみを基準に生きるようになります。
当然、本来人間に備わった社会性からは外れた生き方なので、また生きづらさを実感しループに入ってしまうわけです。
対処法はただ1つ、自発的・内発的な声の優先順位を他人の声より上に押し上げる、それしかありません。人に対してついとってしまう不遜な態度も、卑屈な態度も発生源は自発的・内発的な心の声を無視した結果出てくる心の動きが身体に反映されたものです。自身が敬意を持って接すれば、感謝や謝罪を通して相手も敬意を返してくれます。わざわざ求めなくともです。
それができなくなる程までに金銭的にも身体的にも消耗させられている日本の現状は当然ありますが、それでも絶対に念頭に置いて日々生きなければより悲劇的な未来を自ら引き寄せることになります。
というわけで、つらつら書きましたが今日はここまでにします。
明日もいい日でありますように。