明治十年 河上肇

 

 叔母には子が出来なかった。そして、どういう事情からであったか、明治十年十月七日、彼女は藤村家から離縁になって家に帰った。その時二十八歳である。
 しかし二ヶ月後の明治十一年一月五日には、玉井進という人の妻になった。この人は当時山口県庁の役人をしていた人で、叔母もまた山口に行った。

 

そういえば、

河上肇と永井荷風という本があったな。

 

また、

小島祐馬先生との親交が思い出される。

 

先生が敗戦後、

吉田内閣の文部大臣にと高知まできた相手に、

麦をつくらければならない、と返答された先生の言葉は、

もっと人に知られてもいいと思う。

 

 

昭和二十年 海野十三

 

 あまり日記を書く気持も起こらない。世情は滔々と移り変わりつつあり。
 目下幣原内閣陣痛中なり。
 それよりも気になるのは食糧事情であり、配給はいよいよ微力となった。過日の台風によって本年は稲が遅い開花期をやられて不作確実となり、朝鮮、台湾、満州を失ったのに加えて泣き面に蜂のていである。
 庶民は盛んに買出しに出かけるが、その内情を聞けば、預金はもう底が見え、交換物資の衣料、ゴム靴、地下足袋等ももうなくなろうとし、いよいよ行詰まりの一歩手前の観ある。やがては買出しも出来なくなるものと思われる。配給などが適正に行なわれなくなれば、次にくるものは何か。恐るべし。

 

配給か。

 

配給もそうだが、

戦時体制で完全雇用状態だった日本が突然、

それをやめた結果、多くの失業者が生まれた。

 

彼らの多くは国に言われるがまま、

愚直に働いていた人々だ。

 

彼らの惨状を救済するために、

国会では生活保護の適用条件の緩和が議論された。

 

国策の転換によって生まれた国民の窮状を、

国が身銭をきって助けなければ、

国民は国を信頼しない。

 

今、

日本は明確に転換期にある。

 

国策の転換は必ず、

貧窮者を生み出す。

 

まずは、

それを認識した上で、

どうするかだが。