元記事
年寄り方々がよくいう話題で、
昔の女優さんはほんとうに綺麗、ということ。
要は昔の女優さんは整形した加工してないのに綺麗で、
今の女優さんよりもすごいね、ということだけれども、
まぁ、
あれはあれで撮る方の努力があったとは思う。
いずれにしろ、
写真というものの「暴力性」については、
ロラン・バルト氏たちの世代で散々、論じられているけれども、
それに対する返答が、
無加工の写真はネットにあげない、的な行動じゃないのかな?
テレビとか写真が真実をうつすとかいう言説が昔はあって、
久米宏氏なんかは報道番組で散々使っていた。
けれども、
実際は素材の選択や解釈で、
もはや真実というよりも映画や小説に使い報道も多かった。
その上、
それを真実です、と言い切るメタ構造になっているという、
まるでエヴァンゲリオンの映画版ラストの実写挿入や、
川島雄三監督の「幕末太陽伝」の幻のラスト、
さらにはタコ八郎氏が伝通院近くで出演した劇みたいな街中に逃走や、
ソフィーマルソーが主演した「狂気の愛」みたいな感じだ。
脳が無意識に複数の自分を供して相互に情報を加工して流通させることを、
俯瞰的にみているオリジナルというのは、
それこそ「攻殻機動隊」的であるけれども、
人の人生密度の急上昇はフィクション以上に面白い社会を生み出している。
それこそ、
寝る前に自分がみたい動画や写真、世界について自動的なAIが寝物語的に情報を搾取して、
本人が寝た後、
耳元でラジオドラマ的に囁いたとする。
寝ている本人はドラマの中に妙な立ち位置で出現することができる。
それはフェイクであるけれども、
体験としては現実だ。
もう何十年前かな?
ロンドンの大学でいい夢をみせるための研究をしていたグループがあった。
今はどうなっているのかな?
ただ、
あの報道や明晰夢、消し忘れたラジオドラマとの奇妙な体験などなど、
そうした事柄は嘘かもしれないが、
事実として現実である。
かつて体外受精などを小説の中で小ネタとして描いた作家が、
後年、その学会から先駆者として招待されて苦笑したという話と似ている。
自分のフェイクをネットに投稿し続けた結果、
自分でない「自分」が社会的存在として認知されてしまい、
生き場所を失ってしまう個人や集団は、
虚言癖や妄想、カルト宗教的存在として社会から排除されてきたが、
その一方で、
そうした技術面は政治や商業の世界では一般化している。
必要も実用的価値もない品物に天文学的な価格をつけているのは、
そうした妄想家たちの生み出して技術の成果だ。
果たして、
自己のフェイクが自己に利益をもたらす時代は来るんだろうか?