元記事 

 

 

石丸氏の上手いのはこうした発言が人権派に取り上げられて、

ネットで拡散されるのを理解していることだよね。

 

女子供、

要は「孺子」と共に考えたり仕事をしたりすることは本当にやっかいだと、

考えている人たちは発言しないだけで多数派ではないかと思う。

 

「日本の過去からの習俗が、女を子供に近く結びつけて見て来ている歴史の、その他の半面が文学にあらわれているのだと思える。日本の婦人作家は、自身の文学の成長の過程で、旧来、女子供と一括されて来ていたその社会のしきたりをかえて、女と子供とは二つの別のものであってそれぞれに自立した生活の内容をもって、社会にかかわりあってゆくものである事実を明瞭にしようとする時期を通っているのであると思う。」

 

これは宮本百合子氏が書いている文だけれども、

確かに日本には「こども」に関わる人たちとそれ以外を区別というか差別にまで発展させる伝統がある。

 

これはこどもを教育する「教師」に対する偏見であったり、

こどもの世話を男性よりも多くしがちな女性に対する侮りであったりするのと同時に、

「こども」時代の保護を意味する区別であったりもする。

 

こども社会の規範とは異なる大人社会の苛烈さからこども時代を守る意味もあると思っている。

 

アリエスがいうように、

歴史上、

「こども」という存在は恵まれた時代の産物であって、

多くの時間においてこどもとは小さな大人だった。

 

日本においても戦時中、

疎開した子供達の変化とその後の社会性がそれ以前の子供達と全く異なる点を考察して、

疎開において人擦れしたことが原因だと書いていた作家がいたと思う。

 

あの時代の子供達は「こども」ではなく「小さな大人」だった。

 

個人的には今のような平和な時代に、

こどもなのに、

また、

こどもの役割を期待されて正面に押し出されている人たちは大変だと思う。

 

石丸氏のような大人はメディアの正面では少数派だけれども、

スタイルは違っても会社には普通に大勢いると思うし、

いなかったら仕事にならない。

 

時代は確実に変わって、

経済の時代は終わって戦争の時代の始まりにいる。

 

軍事産業の歯車は動き出して、

もはや止められない。

 

そんな中で、

「女子供」という言葉は違った響きと意味をもってくると思う。