元記事 

 

 

色々と末期症状だと思うが、

過去にはこんな記事もある。

 

 

 

「「生身の役者が演じるわけだから、多少(脚本を)変えたり、シーンを入れ替えたりするというのは以前からあった。昔はプロデューサーから前もって『この部分を変えます』という連絡があったけれど、それもだんだんなくなっていった。

今は監督、役者たちが勝手に変えている。特にテレビの人は、決定稿ですと言って(完成した原稿を)渡したときは『ありがとうございました』と言うけど、後は自分たちで変えればいいと思っている。決定稿とは名ばかり。いわば『名ばかり決定稿』ですよ。

とはいえ、テレビドラマというのは映画と違って尺が決まっているから、放送時間をいかに埋めるかという作業でもある。CMとの絡みとか、撮影所を使える日程の都合とかで、脚本に手を入れるのはやむをえない部分もある」」

 

社会派で難しいドラマをつくるのは、

今のTV局には無理なんだろうと思う。

 

あと、

よく現場に豪華な差し入れや、

派手な打ち上げなどの記事も見るけれども、

それと今回の件をあわて思い出した文章は次のものだ。

 

「「馬車物語」(新東宝)の撮影に、伊豆へロケーションに行ったことを徳川夢声氏が随筆に書いている。日夜の酒宴である。たまに撮影がある。夕方五時になると、お時間です、とピタリとやめる。昔から映画界には、時間と金をかければ良い作品ができる、という迷信があったようだ。チャップリンが何々に三年もかかった、百万ドル映画だ、そういうことが宣伝の文句だけにとどまらず、日本の映画人が本当に信仰している。
 芸術家の気まぐれなどという気質は、称賛すべき気質じゃない。三年かかったものを三ヵ月でやれるなら、三ヵ月の方がよい。
 いわんやロケーションにでて日夜飲食にふけり、まれにしか撮影をやらず、やったと思えば、お時間です、とくる。こんな風に金と時間を費すことが如何にフザケタものであるか、明かなことである。すべて仕事は、それが芸術であっても、能率的でなければならぬ。
 一東宝にとどまらず、日本の映画製作の機構には多くのムダがあり、迷信があり、しかもそれが映画人にはほとんど反省されておらない。この旧来のマカ不思議な機構に対する改革ということなれば当然なことと私は思う。」

 

昭和23年に坂口安吾が書いている文だが、

いまだ占領下で苦しい時代だったと思うが、

この分の映画をTVドラマと言い換えても、

あながち間違いではないように思える。