夜話2319 広島第1陸軍病院大田分院1 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話2319広島第1陸軍病院大田分院その1
 

広島での被爆体験的なことは過去に書いた記憶があるが年月を経ていささか誤りがあったと思いここに再度記録する。

 

前の記録に気づかれた現島根県大田高校から「創立百年史」に掲上したいので}との依頼により再度記憶をたどり昨年 こたえたものの全文である。

 

戦後77年経っての記憶、それも消したい思いの強い記憶。

 

筆が鈍り 誤りがあるかも。

 

併し大田高校の記念誌編集責任者のたっての依頼。

原稿枚数も限られてはいるが書き記した。

 

すでに完成した記念誌史も送られてきた。

その内容をそのまま記す。

 

掲載誌名は「大田高校百周年記念誌史」発行は令和4年8月吉日。

 

拙稿は56頁と57頁。

 

顔写真と昭和38年度の福岡県展最高賞受賞の『蝕B』が掲載されている。

 

 

 

      本文は下記のとおり。

 

「広島第1陸軍病院大田分院回顧録」

昭和20年(1945)年7月初旬。大分陸軍病院から広島第1陸軍病院大田分院に転院を命じられた。  

分院は島根県立太田中学校だった。

 

(太田高等女学校もともに分院だったことを後日知った)。

 


ひと月後、再度転院を命じられたわれら約20名の病兵は、本院のある広島に理由も知らされずまた転送された。 


8月6日、夜も明けぬ暗闇の広島駅で 普通列車後尾の連結貨車二輌に詰め込まれ、西方面に向かって出発。

ニギリ飯一個の朝食をすませ、ひと息ついた八時過ぎ、突然、強烈な光線を伴った猛烈な風圧により、列車数輌が脱線転覆した。

 

骨折などの負傷兵の悲鳴に、引率の伍長は「江波分院に救援を」と部下に命じた。

 

午過ぎ、2台の救護用のトラックが到着。それに乗って江波分院に避難。

なぜか江波分院は人影少なく避難壕には余裕があった。

 

午後3時ごろ、猛烈な火災と雨の中、広島市都心部方向に向かって、衛生兵や我ら独歩患者(歩ける患者)を乗せた救援トラックは出発した。

 

負傷軍人のみを救い上げたトラックは 走行約一キロで満杯。

焦げた皮膚を垂らして救いを求める男女一般人には、車上から柄杓で消毒液をかけるのみ。

 

その液を水と思い口をあけて催促する子どもたちの姿を今も思い出す。

 

 

こうして広島周辺で救済された300余人の負傷兵とともに再度太田駅に帰着したのは8月9日の午後だった。

 

駅前に集まつた群衆は、新型爆弾(原子爆弾という言葉は9月に一般可化)による負傷兵の集団のあまりの惨状に近寄るものもなくただ見守るばかりだった。

 


 

 

独歩患者である我らは代理衛生兵を命じられ、負傷将校の一団に付き添って早々にトラックで分院に到着した。

 

 

翌朝、約20名のもんぺ姿の女学生たちが臨時看護婦として分院にやってきた。胸の氏名表には、こつちも分院だった大田高女の校名と3年生の氏名が書かれていた。

 

 

彼女らを中央廊下に面した 担当病室(元教室)につれて行ったが、室内のあまりの凄惨さに立ちすくみ、部屋に入る者は皆無。

 

床に敷かれたゴザの上に放置され 横たわる負傷兵には、蠅が群がり 高温の室内はうめき声に充ちていた。つづく。