夜話 1921 八女の『 五十年来の珍事』その一 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話 1921 八女の 『五十年來の珍事』 その一

 

畏友江下淳君が亡くなる前に託した古文書の解読文。

原本の行方は不明。記載されている『珍事』を意訳してみる。

           『津波』

冒頭にあった「寛政元年辰年」は誤り。

内容が島原雲仙岳の噴火と地震とに関係があるとみて この冒頭の年を寛政四年子年」と訂正した。

つまり世に言う「島原大変肥後迷惑」の八女夜話である。

暮れ方五ツ時分、町の人々が「津波 津波」と騒ぎ出し、矢部川河口の大川町あたりの人が追々逃げて来るので、川上の福島町の人々も何のわけがわからないのに騒ぎに巻き込まれた。

多くの人が逃げて来るので、福島町の人びとも騒ぎ出し 逃げ出す始末になった。

小高い 町の氏神の堀江宮・八幡宮などの境内に押し合いながらわれ先にと登った。

命さえ助かればそれでよいと、貯え置いた金銀財宝は捨てて、元気な者は東の村山内村の山内山、忠見村の忠見山に登った。

(この辺は磐井の墳墓岩戸山に続く小高い丘陵)

屋敷の大木に登る者もいた。

この騒ぎは前代未聞の事だった。

矢部川の河口の大川町若津あたりより山内辺までうわさが流れ 六里 横一里あまりの地方の住民は家財を捨て ひとりも遺すことなく逃げ出した。

しかし、それらの家財が 泥棒にあうこともなくまことに不思議のさわぎだった。

後でわかったことだが四月一日に島原温泉山東小嶽が崩れ、城下町などすべてを押し流し海底に引き落とし何千人と云う人が死んだとしいうことだった。 

そのとき 現場から真っ先に逃げたものは幸いに命が助かったということを知った。

まず 逃げ出すことが唯一の助かる道と伝え聞き、また地震により恐ろしい津波が興ることを、三才の子どもたちでも知っていた。

若津の南の海辺や新地の漁師たちからの言い伝えでは雲仙岳の下の海面に、白雲か水煙ががの中腹から有明海の上一面が白み、月は西にかたむきおぼろ月のようになったときには 大量の水の湧出すると心得ていた。

津波の時はまず現場から逃げるが第一。山の高地の方に向かって走ること。

まず山内村の古墳地帯の小高いところまで逃げれば何事も無く無事に助かる

 

 

以上の「津波」の古文書は 現代にも通用する。

まず一切のものを捨てて小高い場所に向かって逃げる事」。

嬉しいことにはこの文書は「火事場どろぼうがいなかったこと」を示している。

また流言蜚語でさえ久留米藩と柳川藩の境の矢部川伝いに伝わってきたらしいことを示している。

 

堺川を横断して柳川から八女に伝わらないことにおかしみがある。

生活・民俗・習慣など すべては藩の個性によるものだったことも伝えている。