夜話 1344 最後の御用絵師三谷有信 | 善知鳥吉左の八女夜話

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「父の日コンクール金賞 井手葵 小5年 

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夜話 1344 最後の御用絵師三谷有信 



三谷家は久留米藩の御用絵師の家系
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有信は天保十三年久留米で出生し安政六年江戸の狩野勝川院の門にはいり本格的な絵を学んだ 

三年ごの二十歳のとき 藩命により江戸邸に極彩色の壁画を描いた

有馬と有栖川の息女の結婚を祝ってのこと云われている

明治七年久留米明善校の図画担任の教師になった 

江戸狩野派の画法と洋式画法を取り入れた ざん新な画法が初めて久留米の教育界に導入したのは有信である

この教育活動を通じて福岡県の学務委員や明善学会議員となり彼は次第に実業界と政界に接近する 

明治十年旧士族のための授産所赤松社の創設や農工銀行、六一銀行、三潴銀行の重役に就任するなど多彩な活動を経てついに久留米市会議議長になる

しかし有信はそれらの政財界の活動のなか画家としての腕も磨いていた 

そのころ夭折した坂本麟太郎も彼から絵を学んだという


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麟太郎は坂本繁二郎の兄である 

有信は明治十七年同十九年の東洋絵画共進会に絵を出品し受賞している 

これらの実績が契機になり 当時東京美術学校設立運動の中心画家 橋本雅邦らから其の運動にかかわるよう誘いを受けたが彼はそれに応じなかった久留米の政界、実業界がそれを許さなかったともいわれている 有信が市会議長のとき明治廿ニ年筑後川が氾濫し大被害がおこった久留米市は水害対策費用等の陳情に有信があたった彼は陳情書に水害惨状の絵と次の歌を添えて提出した海をなす水にただよう民草のよるべをなみになげくこのこ゜ろその絵は今も残っている彼の描写力は確実なものまさに彼の画家としての能力をしのぶことができる明治四十年政界財界から身をひいて三潴郡三又に住んで自適の生活をおくった晩年老令の生活のなか極彩色の絵を残して久留米藩最後の御用絵師の誇りを示している 

昭和三年八十七才没亨年八十七才だった

 上図 下図ともに三谷有信画


(敬称略)