夜話 920 山本健吉と原民喜の逮捕
八女の山本健吉文庫には『夏の花』の原爆作家原民喜の誌稿「魔のひととき」がある
原が自裁するとき山本宛の遺書とともに贈られたものではないかと愚生は推測している
大正十三年 山本と原は慶応義塾大学文科予科に入学する
そのころ原民喜は俳句に関心をもち杞憂亭と号した
彼の俳句を雨の舎主人こと山本健吉が選んだことがあつた
大正十五年一月刊行の同人誌『春鶯囀』での山本・原との交流の外のところでのふたりの付き合いの世界に俳句があつた
原にはダダイスト時代の詩歴があったがやがてマルクス主義にふれ左翼運動に傾斜して昭和五年から六年にかけて日本赤色救援会(モップル)に参加した
原よりも一歩先んじて山本はモップルの城南地区委員会委員長をしていた
大正十四年公布された治安維持法は昭和三年に改正された
翌年十月からの世界恐慌の波に両人はさらわれた
しかし両人が社会主義に共鳴し運動自体にどれほど自覚的であったかは疑わしい
昭和九年五月山本・原両夫妻は特高に拘引された
原夫妻は一晩の拘留で帰されたが山本夫妻は二十九日間拘留された
山本は「人との応対がろくにできない原が救援会の仕事ができるとはおもわなかった」と後年語っているが 山本自身もろくなことが出来るはずもなかった
太宰治もそのころ同じように左翼への傾斜と離脱をたどっている
そのころ山本家と原家はお向い同志だつた 山本はそのころ某誌の編集の仕事をしていたが「過去との清算がすんでいなかつた」と自省している
原は「昼寝て夜起きるという奇妙な生活を続けたことから特高の嫌疑を受け夫妻で検挙された」という
原の文学人としての健康さが官憲には理解出来なかったということ
このころから原と山本との間に隙間風が吹き始め十年近い二人の友情に亀裂が出来たが 敗戦後の昭和二十三年に遠藤周作の仲裁により和解する
亀裂の原因について二人の共通の友人長光太は「山本の奥さん秀野さんと原の奥さん貞恵さんとの感情の行きちがいがややこしくからんでいた」と云っている 二人の妻はともに美人で俳句が上手いしっかりもの
なんとなく主人同志の亀裂の原因がわかるような気がする(敬称略)
上 原民喜夫妻
参考 岩崎文人 日本の作家100人人と文学 「原民喜」を薦める