夜話 226 「炭団坂の上の雲」 | 善知鳥吉左の八女夜話

善知鳥吉左の八女夜話

福岡県八女にまつわる歴史、人物伝などを書いていきます。

夜話 226 「炭団坂の上の雲」

「知人から『文春12月臨時増刊号』を頂いた。ありがたいこと。貴公にもあlりがたさを分けてやるからちょっと出て来い」とのこと。紅雨老人のいつもの電話召集である。
紅雨老が手にしていたのは『坂の上の雲と司馬遼太郎』文春特集号だった。

善知鳥も近くの書店に出むいたが売り切れていた雑誌だった。

なかに「軍神広瀬武夫・死の真相」など注目の記事もあったが、それよりも紅雨亭にとって快哉の記事と写真が載っていた。

正岡子規が四年間住んでいた東京本郷真砂町の「常盤会寄宿舎(元坪内逍遥邸)」の二階屋根の上の寮生たちの記念写真だつた。

写真説明で「下には樋口一葉が住んでいた」とある。

この写真はその一葉住居のあたり善知鳥吉左の八女夜話 から撮った写真だ。

この件は「夜話82宮澤賢治と樋口一葉と正岡子規」で紅雨亭はすでに触れていた。


紅雨亭はニヤリとして「オイラの推理が一歩早かったぞ」と「文春」相手に威張ってみせた。

屋根の上の一群の寮生中に子規がいたか?。

この写真には明治文学草分け時代の夢がある。

この建物の真下のあたり、明治23年の「菊坂七十番地界隈」には二十歳の樋口一葉ら一家三人が住んでいたことは確実。

岡の上と下に住み分けた明治の文学人への紅雨亭の思いは複雑である。

やがて紅雨亭のニヤリとしての自慢話た。

まさに紅雨亭お得意の俯瞰的推理で早くからそれをつかんでいたわけ。

紅雨亭は「青木繁と坂本繁二郎」についても、斜視的俯瞰推理をときどきしてみせる。

紅雨亭が推理つづけているもう一つの対象がある。のちこの常盤会寄宿舎は「無線電信学校」「東陽堂」を経て現在「日立研修所」になっている。その建物と学校の変遷の歴史がそれである。

若かりし紅雨亭にはこの学校のそばを通過する毎日があった。

近くの画塾かえりの日々の思い出がある。

そのころ紅雨亭と共同生活をしていた友人の丸毛もすでに逝ったが、ふたりともこの学校は夜間中学校などと思っていた。

いつも遅くまで灯りがついていたからだ。

『臨時増刊』には「現在の炭団坂」の写真もある。

うれしいことにカメラの位置は紅雨亭らの下宿の格子門の前である。

日本の敗戦が確実になりつつあった昭和18、19年の菊坂生活を、先に逝った友人の思い出と重ねて目を細くして紅雨亭語った。

「炭団坂の上の雲」をながめての青春がそこにあった。 

   写真は紅雨亭秘蔵の木造「樋口一葉の貌」。