夜話 12 八女に来た書聖独立
八女公園の坂本繁二郎の寿像の前に「天間独立愛賞之石」が横たわっている。
明治39年、この公園造成のとき八女郡内の名石が集められた。
現八女市山内の「独立屋敷」にあつた石がここに移されたのである。
承応二年に明国滅亡のとき長崎に戴曼公という明人が亡命して来た。
故国では書家・篆刻また医家として、すでに著名だった。
明の隠元禅師(黄檗宗)が長崎に亡命渡来すると早速弟子になり独立(どくりゅう)と改名して隠元が将軍家から招かれ江戸に行くとき、書記として随行した。
老中松平信綱は独立の学識に傾倒して、川越藩松平家の菩提寺の平林寺にしばらく居住させた。
同寺に弟子の深見玄岱が寄進した厳しい風貌の独立座象がある。
わが国に正統の篆刻の理論と技術をもたらしたのも独立といわれ、彼の印譜に富岡鉄斎は「独立堂之図」を書き添えて愛蔵したという。
また「痘疹治術伝」などの医書も書いている。
長崎に帰ったのち、寛文三年ころから筑・豊・防の諸国をめぐり病人の治療と医術の普及に尽力した。
久留米藩主の病気治療にも招かれた。
とくに岩国藩主吉川氏に重用された。
岩国の錦川の橋の造成に故郷中国の西湖の架橋技術などの提供をして今の錦帯橋が完成した。
八女市内山内に居住して近傍の医師に医術を伝授したのもそのころである。
彼が愛した庭石をうたった本荘星川の漢詩「独立石之歌」が残っている。
星川の家熟の川崎塾から優れた人物が輩出したのも独立の遺風がもたらしたものである。
柳川の安東省庵や水戸の朱舜水らとの交流もあった。
寛文12年独立の二人の孫が長崎に来て、帰国を勧めたが断つたのち、11月6日に崇副寺で77才で死亡し京都宇治の黄檗宗本山万福寺に葬られた。
画聖坂本繁二郎の寿像と書聖独立の愛石は今なにを語るか。
八女公園の一角に郷土史の一こまがある。(敬称略)