坂東を縦横無尽に駆け巡った侠客、
「赤城の山も今宵限り」のセリフで知られる
あの国定忠治。
その墓はみどり市の岩宿遺跡から東南へ6㌔ほどの伊勢崎善応寺に。
はるか赤城山がうっすらと。
しかし、
今どき、侠客・博徒なんて…(しばしお待ちくだされ、しばし)。
でも墓参して懐しかった。長く忘れてた。
忠治は本格的な侠客・博徒であった一方、
「磯沼しゅんせつ工事をして農家を救済した……が、関所破りも三回…」
と、門前の看板に。
国定忠治、本名長岡忠治。国定村出身。
ひときわ際立つ墓塔。
この日は曇天にて墓塔の向こうに赤城山は稜線うっすら、残念。
かつては境内に資料館があったが…。
かつて父にせがんで東映時代劇映画『任侠中山道』を見に連れて行ってもらった、面白かった。
血沸き肉躍った!
あまりに古い話にて嘲笑されそう(笑)。
国定忠治役に市川右太衛門さん(北小路欣也さん父)が。
また清水の次郎長には片岡千恵蔵さんが扮していた。
「おいおい、いまどき忠治も、次郎長もないだろに~」
▲中央右・吉良仁吉、左・大政
腰に一本差しの刀を振り回しての、やくざ・侠客同士のけんかシーンは面白かった。
また次の「任侠物」が見たくて、見たくて。
「任侠清水港」もよかったなぁ。
話は坂東から西へ飛んで静岡県清水港。
東海道沿い清水市はいまや、静岡市清水区。
「♪~清水港は鬼より怖い 大政小政の声がする~」
親分・清水次郎長と、子分の大政・小政の眠る梅蔭禅寺へ。
街道一の親分、次郎長は、明治の時代になって、侠客・博徒から地域の実業家となった。
幕臣で、明治天皇の養育係でもあった山岡鉄舟と懇意になったことが次郎長の名を高めたという。
境内に次郎長の銅像が、こわい顔じゃ。
テレビドラマ「次郎長三国志」、浪曲、講談などでその名が日本中に知れ渡った…。
かつてラジオの浪曲などで次郎長の名をよく耳にした。テレビはあまり見なかった。
さすがに最近は、「資料館や墓参に来る人は少なくなりました」と係の方。
墓碑に「侠客次郎長之墓」。書はなんと榎本武揚か。さすがじゃ。
並んで次郎長子分の双璧、大政・小政の墓。
次郎長には、大政小政のほかに、「花の二十八人衆」と呼ばれる錚々たる子分の軍団がいた。
みなみなめっぽう喧嘩が強く、義理人情に厚く、その名をますます高めた。あこがれた。
いやぁ、すみません長々と。
呆れかえらずに、もう少しおつきあいを。
「おい、いつまでヤ〇ザの話をやってんだよぉ」
あにぃ、面目ねぇ、もうちょっと、もちょっと。
二十八人衆の面々は、
清水の次郎長、大政、小政、増川の仙右衛門、大瀬の半五郎、森の石松、法印の大五郎、大野の鶴吉、相模の五郎、吉良の仁吉、追分の三五郎、桶屋の鬼吉……このへんにしときます。
森の石松、吉良の仁吉の墓参もすませてますが、また後日ということで。
いまどきはやらない侠客伝を忠治さんから長々と済みませんでした。
これじゃコメのしようもありませんね。
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