坂東の平野、西北端に位置する沼田城。
上杉・北条・武田が争奪にしのぎを削った城。
というより、真田一族が信濃の地より上野国出張って得た城というべきか。
沼田城は江戸時代、こんな美しい城郭だったそうな。遥かに越後の雪山が。
現在の沼田城跡の象徴、鐘楼。
明治になって建てられたものだそうな。
空堀もあるが、石垣が少ないのは残念。
西櫓台に残る真田時代の石垣。
天正8年(1580)、武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸は沼田城を攻略。
さらに翌9年沼田城の奪還に来攻した沼田平八郎景義を謀殺して沼田氏を滅ぼす。
謀殺された平八郎景義の首を晒したという平八石。
城・領国の取り合いに謀殺は常とはいえ…。
政治のみならず権力抗争の世界では、一番の悪は騙された者、二番目の悪は、騙す者はだそうな。
騙したは昌幸、騙されたは平八郎…か。
遠く九州豊後の、黒田VS宇都宮の抗争を思い出す。
昌幸の像か…。
城内には、昌幸の跡を継いだ信幸と小松姫の像が。
関ケ原直前、義父昌幸と夫信之が手切れとなったことを知った小松姫は、義父が上田へ帰還する際、沼田に立ち寄った昌幸を、城内に頑として入城させなかったという逸話、かっこいい話だった。
長刀を持って城門に立ちはだかる小松姫の挿絵まで覚えている。
しかし昌幸の沼田城は、1589年に秀吉の裁定で、なんと真田から北条の支配下に!
ところが北条が裁定を破って、真田の領有と認められた利根川対岸の名胡桃城を略奪、これがきっかけとなって秀吉の「小田原征伐」が勃発した。
▼沼田城北側から名胡桃城を望む。中央橋の上あたり。
20万の大軍が坂東に押し寄せた北条攻めの契機となった昌幸が築城した名胡桃城は次回。