●我が信州の義民多田加助(中萱嘉助)もぜひ | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

将軍に直訴した義民・佐倉惣五郎と同じく、我が信州には「加助騒動」の中心人物義民・中萱嘉助(多田加助)がいた。

この際、ぜひぜひお見知り願わしゅう!

 

教科書は、
「藩領全域におよぶ全藩一揆(惣百姓一揆)には、たとえば1686(貞享3)年の信濃松本藩の加助騒動があげられる」
と記載される。

 

加助騒動はこの年の秋、藩から突然前年を上回る過酷な年貢取り立てのお触れが領内に出たことに端を発した。
これに異議を唱え先頭に立って軽減を訴えたのが中萱村(現我が安曇野市)庄屋の多田加助であった。
加助に賛同する百姓はまたたくまに安曇野から松本平全域へ広がり、なんと一万人をこえる農民が松本城下に押し寄せた。


これに驚愕した藩重役は「なんとか鎮めねば!」と、いったん一揆の要求を認めた書をしたため加助ら主導者らに渡した。
「やったぁ!」
歓喜する百姓たち。
だがそれは騒ぎを鎮静化して百姓らを村へ帰してしまう藩の欺きの空手形であった。

 

しばらくして藩から「要求を認めた沙汰書を差し出せ」との通達、さらに数日後一斉に藩役人が村々へ急行、加助ら騒動の主導者を次々と召し捕った。
なんと加助の子の12歳と10歳の幼い兄弟も捕縛された。

そして捕らえられた一揆主導者の一族28人はわずか7日後に全員処刑!
10歳代の男児が10人以上も!

主導者の一人、小穴善兵衛の子・12歳の女児おしゅんまでもが刑場の露と消えた。

 

かつて私は、この一連の騒動の結末に疑念を抱いたという鈴木伊織なる武士の伝説を調べ、拙著『負けても負けぬ三十二将星列伝(しなのき書房)』にまとめ載せた。

拙ブログにも鈴木伊織伝として、加助騒動のことを書いているので、ぜひ時間ありましたらご一読いただけたらと思います。

 

鈴木伊織頼常(?~1690)とは。

江戸時代の松本藩主・水野忠直の頃の藩重役とも、一藩士だったともいわれるが定かでない。
貞享3(1686)年に松本藩で起こった加助騒動(貞享騒動)で多田加助・小穴善兵衛ら主導者の仕置きに疑念を抱き、助命に奔走尽力したという。
江戸在府の藩主から処刑差し止めの許可を得て刑場に駆けつけたが、間に合わなかったという伝説も。

鈴木伊織は、藩のいかなる立場にあったのかなど詳しいことは分かっていない。
ただ事件から4年後、伊織が死去した際「在々出家衆・庄屋・百姓」など多くの人々がお悔やみに鈴木家へ参集する動きがあった。
だが藩は
「参ル候事、無用之由」と固く禁ずるお触れを出したという。
伊織が何らかの形で百姓らに深い情を寄せていた人物であったことをうかがわせる史料といわれている。

 

 ▼加助を祀る加助神社(安曇野市三郷)

 

▼処刑された二十八人の墓所(松本市)

 

▼処刑された二十八人の名を刻む慰霊碑(安曇野市三郷)

 

▼献菓「伊織」と銘菓「加助最中」

▼鈴木伊織墓所と湧水「伊織霊水」(松本市)

 

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