●嗚呼、佐々木小次郎よ… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

九州ともついにお別れ。

関門海峡を渡って萩方面へ、山陰へ向かう。

山口県阿武町にあるという佐々木小次郎の墓を目指す。

「武蔵といえば小次郎!」

なのだが、武蔵の墓はよく知られるものの小次郎はまったく知らなかった、不覚というほかはない。

 

武蔵の墓は、ふる里の岡山県美作市の武蔵神社境内にある。

左が武蔵、右は両親の墓塔という。

 

また熊本市北区の広大な武蔵塚公園内に武蔵の墓が

武蔵は62歳で熊本にて死去した。

小次郎との船島の決闘からおよそ30年が過ぎていた。

 

チャンバラ好きだった私は武蔵の話が好きだった。

史跡、ゆかりの地が多いことも魅力だった。

武蔵のふる里には生家が今も残っていてご子孫が居住しているという。

 

七十余人を次々となぎ倒した京都・一乗寺下がり松の吉岡一門との決闘の地には「宮本吉岡決闘之地」と刻まれた碑が立っていた。

 

数多い武蔵の史跡に比べ、佐々木小次郎の史跡は、武蔵に敗れ落命の地となった下関市船島が数少ない史跡というべきか。

対岸の彦島の地から船島を俯瞰する。

 

船島には武蔵と小次郎が闘う像が立っている。

武蔵・小次郎像の前で、チャンバラする子供たちの姿が実に懐かしかった。まるでかつての自分の姿を見るよう。

しかし燕返しの技をやぶられ落命した小次郎はその後どこに葬られたのか、考えたこともなかった。

勝者の武蔵ばかりにとらわれていたのだ。

吉川英治作の小説『宮本武蔵』、内田吐夢監督の映画『宮本武蔵』五部作の影響を強く受けていた。

 

そんなふとした折、佐々木小次郎の墓が山口県阿武町にあることを知った。

数年前、萩へ行った頃、津和野城跡へ登城した頃、まったく知らなかったのだ。

 

萩城下にも寄らず、道の駅の松陰先生や久坂玄瑞、高杉晋作の銅像にあいさつだけして小次郎墓に向かった。

 

「小次郎墓への案内標識がけっこう立ってますからすぐ分かりますよ」と地元の方。

確かにいくつかの案内に沿って着いた。

あの向かいの山中にあるらしい、「山中か、お寺じゃないんだ…」

 

ここでクルマを停めて山林中へ。

 

 

かつてふもとに寺院があったという。

 

さらに登る、いいのかなぁ熊さんや猪は。鈴忘れてるぞ。

 

あれか、あった!

 

供花が…。

「小次郎さんよ、墓参が遅くなってしまってすみませんでした…。武蔵のところへばかり行って。あなたを演じた高倉健の小次郎は恐かった、強そうだった! 東千代ノ介の小次郎は優しそうだったですよ」…。

地元の方々がよく整備しているようで、墓が守られていた。

あまりの山中でもったいないような気もしたが。

船島での決闘で落命した小次郎の妻ユキはキリシタンだったという。

小次郎の遺髪を抱いたユキは、逃れるように山陰の地へ。

この地の正法寺にて尼となり、夫・小次郎の菩提を弔うために墓を建て、墓の近くに庵を営み、小次郎の菩提を弔って一生を終えたという。

 

武蔵の銅像はあちこちに立つが、小次郎像は船島のを入れて三像を撮った。

燕返しを編み出した越前・一乗滝近くで、愛刀・物干し竿を構える小次郎像。

ここは小次郎のふる里近くという。小次郎はもともと小太刀の名人だったとも。

 

さらに、同じく山口県錦帯橋付近で燕返しを編み出したということで、岩国城をバックに立つ。

燕返しを列伝もよく稽古したがついに会得できなかった残念。

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