肥後人吉城からブーンと九州を北上縦断、豊後・大分県日田へ。
江戸時代の私塾、広瀬淡窓が主宰した咸宜園へ。
文化14年(1817)開塾から明治30(1897)年まで続き、その間、門弟5000人を数えたという。
広く塾跡地が保存されていた。
建物は、右手の淡窓ら歴代塾主が利用した居宅・秋風庵、左手の淡窓の書斎・遠思楼が残る。
咸宜とは、「みなことごとく」という意味で、学歴・年齢・身分に関係なく誰もが塾生になれ、みな平等に学問を受けたという。
しかし毎月!の試験はきびしかったらしい、ムムム。
歴代塾主や主だった門弟の名が記されていた。
著名な門人としては、
かの高野長英、奥州の、今は奥州市となった旧水沢市出身(今はなんてったって大谷翔平さんか、負けるな長英!)。
そして長州の大村益次郎。
写真家・上野彦馬、第23代総理大臣・清浦奎吾らという。
淡窓先生の肖像画、ウーン、恐そう、厳しそう、ちょっとやさしそうか。
右が遠思楼。左が秋雨庵。
跡地の一角に作られた咸宜園教育研究センター。
咸宜園や淡窓の研究調査、普及などの拠点とされ、史料・著作が公開展示されている。
トイレにも淡窓先生が。
教科書には、江戸時代の私塾として、次の11を表にして載せている。
岡山 花畠教場
近江小川 藤樹書院
京都 古義堂
江戸 蘐園塾
大坂 懐徳堂
江戸 芝蘭堂
豊後日田 咸宜園
長崎 鳴滝塾
大坂 洗心洞
大坂 適塾
萩 松下村塾
そして本文に、
「儒学者広瀬淡窓が豊後日田で開いた咸宜園、蘭学者緒方洪庵が大坂で始めた適塾、長門・萩に開設された吉田松陰の叔父が設立した松下村塾などが有名である」と記す。
大阪・緒方洪庵の適塾。福沢諭吉や大村益次郎が学んだ。
建物が戦火を免れ、大都会の真ん中に残っている。
近江・高島市の藤樹書院。
知行合一の教えは分かりやすく、子供のころ読んだ「中江藤樹物語」であかぎれ膏薬の話などが印象に残る。書院がかなり整備され残っている。
かつて地元のガソリンスタンドの金髪お兄さんに道を訊ねると、「えーとですね、藤樹先生の…」とふつうに「先生」と言っていたことを思いだす。
さすが「近江聖人」。
伊藤仁斎の古義堂。京都・上京区。
この写真撮った以後訪ねていないが、今はどうなってるのか、このままか。
そして吉田松陰の松下村塾。門弟は有名人ばかり。
▲東京・松陰神社に復元された松下村塾
▼山口県萩・松陰神社のホンモノの松下村塾内部。
師匠の佐久間象山は勉強する態度にも実に厳格で、みすぼらしい服装の生徒を一喝したそうな。
しかし松陰の授業はまったく逆で、机一つ、みながぎゃあぎゃあ松陰を囲んで集まって…議論して騒いで…、だったそうな。
………教師のはしくれだった昔「高得点!有名大合格!」を目指しての授業をただ必死でやってきたような自分を嘆き、懐かしむ。
佐々木小次郎の燕返しをスローモーションでやってみせたころ……あれかなぁ~。
さて明日行きますよ、小次郎さん、墓参に行きますよ!