鹿児島市南の郊外、谷山地区。
「あの~、このあたりに秀頼公のお墓が…」
「ええ、知ってますよ、クルマですか、この道を…」
そして、個人宅の敷地内へ。
門扉が設けられ、緑濃い樹木に守られ。
おぉ、これか、秀頼さんか!
石碑に「伝秀頼公由緒地」と刻まれている。
「本当かどうかよりも、昔からこの家で代々大切に守り伝えられ来た墓ですから、これからもずっとだいじにしていきたいです」
と所有者の方。
秀頼の首塚は、京都・清凉寺に。
ところが、秀頼さんは大阪城では死なず、薩摩の島津を頼って落ち延びてきたそうな。
「♪~花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて、
退きも退いたよ加護島(鹿児島)へ~♬」
というような唄が当時からあったとか…。
当時イギリス商館に勤めたリチャード・コックス氏の日記の中に「秀頼は5、6名の重臣と薩摩にいると聞いた」などと記されているという。
秀頼さんを祀る大阪市中央区の玉造稲荷神社。
大坂城のほぼ南へ500㍍ほど。ここは淀君をも祀っている。
境内に秀頼像が立つ。
いい表情なのだが、武将という感じではなく貴族風。
ほっぺがまた、ふくよかや。
母淀君の言葉に左右され、ついに自らは何も決断できずの総大将だったか。
父・秀吉とは似ぬ壮健な偉丈夫だったとも。
夏の陣、ついに自ら出馬することなく自害したとなれば、生きてもう一度徳川と一戦してほしかったと思った人は多かったろう。
その秀頼と薩摩に共に落ちたというのが、なんと家康を窮地に追いつめた真田幸村(信繫)というのだから話はますます!
因みに真田幸村像は秀頼像からわずか500㍍南、真田丸の一角の三光神社に立っている。
薩摩に話を戻そう。
鹿児島市谷山の秀頼墓からほぼ南へ40㌔、南九州市頴娃(えい)町牧之内の雪丸集落。
ここに幸村の墓があるという。
六文銭(古タイヤ)印の駐車場、おぉ、ここから薩摩富士の開聞岳が。
実は、この駐車場へ来るまでがそりゃあもう大変だった!
たまたま道を訊ねた人家の方が「地図に書くのが大変なので案内しますわ」と。
「私のクルマについてきてください」と。
それがまた30分以上も、かなりあちこち曲がって走って、道間違えて。
地図があっても、とても一人では行けないほど複雑。
カーナビまったく使えず、やっとなんとか六文銭の駐車場にたどりついた。
「ありがとうございました、助かりました!」
何度も何度も頭を下げ、連呼して、手を振って、助かったぁ、親切な人に救われた。
幸村さんの話なんぞ聞いてるいとまなかった。
さてクルマから山道へ。
ここが墓への道の入り口という。鬱蒼…、熊とかたぬきとか猿とか大丈夫なのかな…。
案内や言われなどが書かれていた。拡大して読んで頂きたく。
わたしゃ、ともあれ登らねば。
最初はいい道だったが。
こんな幸村案内が登場したころから、道というかゴロゴロ石の川筋道というか。
道なき道というか。暗いなぁ。
「あともう少しキバレ」と幸村公が励ましてくれちょる。
見えたぁ! あれか!?
これか!
文字は磨滅して何もなし。
辺り周囲にも何もなし、この墓塔のみ。
かなりの山中にポツン、伝承の地とはいえ幸村の墓とならば寂しい。
幸村はこの地で、山伏となって潜んで暮らしたとも。
子孫は「真江田」という苗字で、六文銭の家紋という……。
かつて秋田県大館市の一心院の墓地にて真田幸村・大助父子の墓に参じた。
幸村は、薩摩から奥州へ逃れ、ここで一旗挙げようとしたというが、結局秋田の地で亡くなったという…。
左側が昭和に建てられた墓で「真田左衛門佐幸村之墓」と刻まれている。
真田信繁・幸村の墓は、全国各地10か所ぐらいあるという。
秋田、宮城、福井など、我が信州にも。
その墓の多さが「真田左衛門佐」が、その後もいかに人気の豪勇のもののふだったかを物語っているということか。
私は、ずっと大阪の安居神社の「真田幸村戦死跡之碑」が墓所とかってに思いこんでいた。
幸村さんの南九州の墓は、薩摩富士、東シナ海がすぐそこといういいところだった。