「西郷先生、なぜ大久保さんは、士族の息の根を止めようとするのか。幕末騒乱で命をはったのはおんたち、下級士族じゃなかとですか!」
「一蔵どんは士族もみな一般市民平民となる、それが日本を近代国家にする第一歩と考えちょる、よう分かる、よう。しかし…おんは…」
西郷と大久保は激しく論争する。
西郷も大久保もまったく譲れなかったのだろうか。
西郷と大久保の話に接すると、いつもしまいにはこんなことを思い、深いため息となる。
二人は西南戦争で、今後の日本を背負う若者たちがバタバタと死にゆく様を見ても、二人の思いはまったく譲れなかったのだろうか。
▼田原坂激戦図
西郷死して以来今。
鹿児島では、西郷は多くから「西郷さん」と呼ばれ、大久保は不人気という…。
西郷の像は今も鹿児島のあちこちに立てられている。
しかし大久保の像は、鹿児島にこれのみという。
大久保は西郷死の翌年1878年、東京・紀尾井坂で馬車にて出仕中襲撃され暗殺された。
その時、馬車内で大久保が読んでいたのは西郷の昔の手紙だったとも。
襲撃された地に、哀悼碑が立っている。
大久保の墓所は東京・青山墓地にある。
京都市内に、「大久保利通旧邸」碑が…。
西南戦争で大久保側・敵方となった西郷の従兄弟、当時攻城砲隊司令官だった大山巌(後に海軍元帥)は、敵方になった自分を気にしてか、ついに死ぬまで鹿児島の土を踏まなかったという。
また「西郷生存説」は長く鹿児島に伝わっていたという。