●西郷軍最後軍議の地、延岡城千人殺しの石垣! | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

きのう(9月29日)、登城に喘いだ豊後・佐伯城。

松本城主だった石川康長は、1614年に改易され、ここ佐伯城下へ配流された。

昨2022年、康長公の位牌を安置する善教寺を訪ね、住職に詳しくお話を伺った、あれから1年か…。

 

日向へと向かう前に再び善教寺を訪ね、本堂下に眠る康長公に黙祷。

 

本堂。

 

これを書く今日は、2023年11月11日、信州もすっかり秋。

 

されどこのブログレポは1か月半前の9月29日、灼熱の九州の頃、あの夏の猛暑がうそのような!

 

さていざ、日向国・宮崎県へ、宮崎県に来たのは初めて。

まず延岡市北川町俵野の「西郷隆盛宿陣跡資料館」へ。

明治10年4月、熊本で政府軍に敗れた西郷軍は南へ逃れた。

が、人吉、都城の戦いなどでも敗れ、宮崎を経て北へ。

ここ延岡・北川あたりで政府軍に包囲された。

8月、この地の「可愛岳(えのだけ)・和田越の合戦」では、政府軍は陸軍中将山県有朋薩摩軍は陸軍大将の西郷がそれぞれ陣頭に立ち、相まみえた激戦だったという。

 

陣屋近くに「明治十年激戦地」の碑が立っていた。

ついに敗れた西郷軍…。

陣屋となった民家にて最後の軍議の模様が人形で再現されていた。

 

戦い利あらず、敗れた西郷はここで陸軍大将の軍服を焼却したという。

 

そしてついに薩軍解散布告令を決定。

しかし故郷・薩摩鹿児島をめざす約600の将兵は西郷隆盛を守り抜き、可愛岳を踏破、九州山地を南北に縦断して…。

艱難辛苦の約半月を経て、鹿児島の城山へ到着する。

そして最期の城山の戦いへ…。

 

昨年、熊本城、田原坂を訪ね資料館などで西南戦争をさまざまに見てきた。

▼資料館には西南戦争約15000の戦死者名が刻まれていた

あぁ、

「幼友達・親友・倒幕同志だった西郷と大久保のガチンコ決戦だったとは…」

「西郷兄弟が敵味方となって相まみえた戦争とは…」

 

後に鹿児島市の西南戦争墓地を訪ねた私は、再び考え込むことに…。

しばし日向灘の海風にあたる。

 

次いで延岡城へ。

左右を石垣に守られた北大手門から城内に乱入。

 

北大手門左手の石垣。

 

門を入ると目の前に、音に聞こえた「千人殺しの石垣」が聳えていた!

 

ムムム、逆光。

 

た、高い、たけぇ! およそ22㍍という。

 

最下部の石を引き抜くと音をたてて石垣が、攻め手将兵の上に崩れかかるというではないか。

よって「キラー ストーン ウォール!

恐ろしやぁ~。

 

しかし、それじゃ上部の本丸郭も崩れちゃって…いいのかな。

北大手門から天守台方面へ登る。

 

天守台跡からは。

 

おぉ、太平洋の水平線が見える! 

そして眼下に大瀬川、延岡市街が。

 

天守台から本丸曲輪へ、二階櫓門跡の石垣を見て…。

 

再びキラー ストーン ウオールへ。

この名は後世明治になってから名付けられたそうな。

また誰がこの立派な高石垣を築造したのかはっきりしていないようだ。

野面積みの石垣にていねいに打ち込みがしてあり、実に見事!

延岡城の築城者は、筑前出身の高橋元種という。

秀吉の九州征伐が成った後、この地に五万石余で封ぜられた。

江戸時代は主に内藤氏が藩主として明治を迎えた。

 

かくして延岡城は簡単に登城できた。

次はさらに南へ、佐土原城攻めに向かう。

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