●地元タウン紙に「石川康長」について投稿するも… | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

松本城主・石川康長が配流された大分県佐伯市を、昨年秋訪ねた。

そのことについて地元タウン紙「MGプレス」のエッセイ欄に投稿した。

やっと文がまとまった、やっとのことである。

集中力が全く欠如している所以だ。

 

昔から地元紙に投稿をしばしばしてきている。

だが載るか載らないかは、朝、新聞を開けないかぎり分からない。

この間はけっこうモヤモヤする。

「やっぱ、だめかなぁ…、おもしろくねぇか…」

「今週出なきゃムリだわな…」などなどもどかしいのだ。

投稿を投函(またはメール送信)してから、おおよそ10日~2週間たっても載らないと、まず「ボツ」という感じ。

載る確率は1/2ぐらいか。

 

今回は内容について事前に編集者から連絡があり、きびしく投稿文の疑問点、ミスを指摘され四苦八苦した。

と同時に「おぉ、となると載るな、これは!」などと嬉しくあったりもした。

投函後、23日目載った、やったぁ!

 

以下、投稿した原文です。

字数制限は700字

いくつか指摘された箇所を明記しました。

ご一読、ご笑覧してくだされ。

写真を挿入しました。実際は文のみでなし。また掲載は縦書きです。

 

  タイトル松本城主石川康長配流の地、豊後へ」

「松本から参られましたか。遠路ご苦労様です」
本堂の前にて少壮の住職が深々とお辞儀をして待っていてくれた。大分県佐伯市、門前に緑濃いソテツが茂る善教寺。石川康長はこの寺に眠るという。
▼善教寺

1613(慶長18)年、松本城主石川康長は改易・配流と処断された。

幕閣の重職にあった大久保長安の不正蓄財事件に連座、娘が長安嫡子の妻室だった。

佐伯市は豊予海峡に面した毛利高政2万石の城下町、今は人口4万余の港町である。

    ↳(豊後水道)                   ↳(6万余)

本堂内で住職のお話をうかがった。

「実は康長公の墓所・墓碑はなく、この本堂は公の墓所だった上に建立されています。公の死後、藩主・高政公は逝去した実母の菩提寺としてここに本堂を建立したのです
配流者とはいえ8万石大名の墓所がないとは意外だった。しかもその理由も不明という。
 

康長は父・数正と家康のもとを出奔、秀吉に臣従したが、父から継いだ松本城主は関ケ原後も家康に安堵された。

しかし壮大な天守の建造や防御のための逆茂木(さかもぎ)を堀に仕込むなどの戦闘的な城作りをする康長を警戒したのか家康は、大坂冬の陣前年に改易とした。

▼逆茂木が見つかった堀

実際、ともに改易された弟の康勝は旧臣を率いて豊臣方に参陣、戦死した。
「康長公の墓碑はないのですが堂内に金箔の位牌を安置、命日に毎年供養しています」と住職。また康長が死するまで念仏を唱えていた念持仏像も大切に保護され、50年前に石川家菩提寺・正行寺へ返納されている。
 ↳(松本市)

▼返納された康長の念持仏像

藩主高政は康長の屋敷や従者などを厚遇していた感があり、幕府の厳しい監視を警戒しての墓所の「冷遇」だったか…。
なんとも意外な墓参となってしまったが、穏やかな南国の地で康長は、安らかな日々を送っていたようだった。配流され29年後逝去、享年89。

 

▼紙面

 

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