長野県・松本市周辺の地元タウン紙「MGプレス」に、月1で連載中の「信州知られざる古戦場」 その6 「桔梗ケ原の合戦」です。
このブログでも何回か登場している宗良親王と忠臣・香坂高宗が中心人物。
また御一読していただけたらありがたいです。
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桔梗ケ原の合戦
宗良親王(南朝・宮方)VS小笠原長基(北朝・武家方)
正平10・文和4(1335年)8月
桔梗ケ原の合戦といえば、戦国時代の武田信玄と小笠原長時の戦いがよく知られる。
ところがそれから遡ることおよそ200年前にも、桔梗ケ原にて合戦があった。
宗良親王とは、後醍醐天皇の皇子、小笠原長基は府中(松本)にて信濃守護の任に就いていた。
合戦は激しく、その伝聞は京にまで達したという。
1341年、南朝勢力を関東甲信一帯に拡大するため下向した宗良親王は、その拠点を南信の大河原の地(現大鹿村)に構えた。
地元の豪族・香坂高宗は勤王の心が特に厚く、自らの居城・大河原城に親王を迎え入れ、積極的に支援したからである。
しかし当時の南朝方の情勢はきびしく、忠臣の新田義貞・北畠顕家はすでに戦死、後醍醐天皇も2年前に崩御していた。
焦燥の親王を高宗ら南信の豪族たちは大いに励まし、捲土重来を期して支援した。
1352年、親王は越後・信濃などの南朝支持勢力を結集し、北朝方の足利氏を打倒せんと関東に出撃した(武蔵野合戦)。
当初親王方は優勢で一時は鎌倉をも占拠するほどだったが、小手指ケ原の戦いなどで足利尊氏軍に敗れ、信濃へ撤収した。
それから雌伏3年。
「なんとしても南朝勢力の回復を!」
と、信濃国内の北朝勢力の一掃をめざして挙兵して戦ったのが桔梗ケ原の合戦であった。
当時は原野だったという塩尻市の北部一帯の市街地、広丘高出の街並の一角に、往時をしのばせる「桔梗ヶ原古戦場」の碑が静かに立っている。
武蔵野合戦で北朝方の足利尊氏に敗北した宗良親王、もう負けるわけにはいかない。
3年後の1335年、親王は乾坤一擲の大勝負、府中(松本)へ攻め込み、小笠原長基と桔梗ケ原で相対した。
親王方には香坂高宗のほか、諏訪氏・仁科氏らが参陣結集、敵の主力は信濃守護・小笠原長基、地元の坂西、平瀬氏らが従った。
親王はこの時、諏訪湖北岸の東堀正八幡宮(岡谷市長地)付近に本陣を構えたと伝えられ、境内には4本の御柱に囲繞された「宗良親王御旧蹟地」の碑が立っている。
残念ながら合戦の陣形や動き、兵力数など詳しいことはわかっていない。
だが合戦の激しさは京都にも伝えられ、公家・洞院公賢(とういんきんかた)の日記「園太暦」に、合戦で信濃国は大騒動となり、信濃からの天皇へ馬を献上する催しが中止されたことなどが記されている。
合戦は親王方が完敗した。
親王は肩を落として大河原の地に撤退した。
以後、宮方の劣勢は否めなく、勢力は大きく低下した。
だが香坂高宗ら地元の人々は、その後も親王の退勢挽回に尽力した。
相次ぐ合戦の敗北を嘆き、親王は当時の心境を自らの和歌集「梨花集」の中にこう記している。
「信濃国 大河原といふ深山に籠もりて、年月をのみ侍りしに、さらにいつと待つべき期もなければ、香坂高宗などが、朝夕の霜雪を払ふ忠節も…」。
親王および高宗の辛苦の心情が哀しく響く一節である。
親王はその後、しばしば奈良吉野にも足を運んだが、ほとんど大河原の地に居住、1382年頃逝去したという。
信濃宮とも呼ばれた親王は、大鹿村の山深い静かな林中に、信濃宮神社として祀られている。
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