●越中・倶利伽羅峠発 為盛塚、巴塚、葵塚そして巴の松へ | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

北陸路を加賀から北上して、越中・倶利伽羅峠の古戦場へ。

多くの兵馬・火牛を飲み込んだ地獄谷はいつ来ても恐い、深い谷。

 

為盛塚へ。

為盛とは、清盛の甥、倶利伽羅峠に出陣した平家軍の大将。

しかし平家方大敗の中で討ち死にした。

「源平盛衰記」によれば、

兵衛佐為盛、岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり」と。

 

岡田久義とは松本市岡田の豪族・岡田親義の嫡子。

因みに、この戦いで父・親義は討ち死にした。

 

為盛は倶利伽羅峠に塚はあるが、「平家物語」では平家都落ちした中に名前が見えている。

なんとも…わからん。

なにしろ800年前のことだからなぁ。

 

巴塚は、峠東斜面の森林の中。

同じく義仲妻室だった葵御前の葵塚も。

巴御前は「源平盛衰記」に、

巴と云女は、木曾中三権頭(中原兼遠)が娘也。

心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。

荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。

敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり」

と記されているほどの女傑。

 

この合戦では一隊を率いる大将として活躍。

しかも絶世の美女だったとか。

 

これは木曽の義仲館の巴・義仲像

幼い頃から義仲や兄・兼光・兼平といっしょに木曽で育てられたという。

 

後に琵琶湖畔で鎌倉方との戦いで敗れ、信濃に逃れたとも。

しかし琵琶湖畔に戻り、討ち死にした義仲の菩提を弔うため、義仲墓所近くに庵をつくったとも。

 

義仲の眠る義仲寺にも巴塚が

 

いや、巴御前は捕縛され鎌倉へ行ったとも。

後に和田義盛と再婚。

しかし義盛死後は思い出の地、越中国へ。

砺波の石黒氏に身を寄せ出家、91歳で生涯を終えたともいう

南砺市の福光駅前に、「巴御前終焉の地」の碑が。

巴御前の墓に植えられた松が今も見事な枝ぶりを見せている。

当時のままの松であれば、樹齢700~800年だ。

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