源平時代の武将・木曽義仲の嫡子。
清水(志水)冠者義高、義基、義重ともいう。
現在の松本市清水で誕生といわれる。
寿永2(1183)年、義仲と頼朝の融和策として、義高は鎌倉へ。
頼朝の娘・大姫の許婚となる。
しかし翌年義仲が頼朝に討たれ、義高の立場が悪化。
鎌倉から逃亡したが、頼朝の命で誅殺された。
享年12か。
御所ノ入と呼ばれる地域を更に道をどんどんたどって山の方へ。
一つあった人家のその向こうの杉林の中に石柱に囲まれた五輪塔が。
木曽義高とその妻の墓という。
義高は入間川で討たれず、北へ北へと逃れて佐野家に仕えたとか。
おそらく義高を死なせたくない人々のつくった伝承と思うが。
しかしこのあたりは古代の官道・東山道に沿ったあたりではある。
「吾妻鑑」1184年4月の条に、こうある。
「堀籐次親家郎従の籐内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者(義高)を誅するの由これを申す。姫公(大姫)これを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬水を断たしめ給う」
……必死に鎌倉から逃げる義高。
しかし逃亡して5日目、義高は頼朝の命を受けた追っ手に入間川で追いつかれそのまま討たれてしまった。
▼義高は清水神社として祀られている
義高終焉の地から北へ1㌔ほどのところには、「影隠地蔵(かげかくしじぞう)」が祀られている。
逃げ回った義高はこの地蔵の影に隠れ一時難を逃れたとも伝えられる。
しかし、すぐに見つかってしまった。
わずか十余年の短くはかない生涯だった。
義高を失った大姫の嘆き、それは尋常でなかった。
「義高様が殺された!」
と、半狂乱となった大姫をなだめようと頼朝と政子は、義高を討った藤内光澄の首を差し出すようあるじの堀親家に命じた。
光澄は切腹。
光澄にとってあるじの厳命ならば、「義高殺害も忠義、自刃も忠義」か。
とはいえあまりの哀れの連鎖で言葉を失う。
以来、大姫は生ける屍と化し、その焦燥はついに消え失せることがなかった。
十数年後、ほのかな灯が消え入るように大姫は息を引き取った。
義高の墓は鎌倉・常楽寺の裏山にポツンとある。
最近まったく墓参していない……、12年も前の写真だ。
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