●連載「信州往来もののふ列伝」は小笠原忠真、松平康国、伊能忠敬、武蔵坊弁慶…など、まだまだ次々と | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

小笠原忠真は、小笠原家松本藩2代目当主で、父は秀政、母は家康の嫡子・亡き信康の娘・登久姫。

よって忠真は家康曽孫となる。

 

松平康国とは、あの依田信蕃の嫡子。

家康は信蕃の戦死を惜しみ、子の康国に松平姓を与えた。

 

伊能忠敬は、言わずと知れた日本全図作成者。

内陸の信州も駆け抜け探査している。

ご存じ武蔵坊弁慶は、牛若丸・義経の一の家臣。

我が信州にも足跡を残したような……。

 

まだまだかくの如き、もののふ達が続々登場。

信州往来もののふ列伝」の連載もまたよろしく御贔屓のほどを。

 

さて、早春の北関東へクルマを跳ばす。

松平康国が憤死した石倉城址を訪ねて上野国へ。

 

父及び叔父の依田信幸は岩尾城(佐久市)の合戦(天正11・1583年)で討ち死したため、嫡子の康国が13歳で依田家を継いだ。

 

陣頭指揮の最中に銃弾を受けて憤死した信蕃を、ことのほか惜しんだ家康は依田姓の康国に「松平」姓を与え、大久保忠世を後見人としてつけ、小諸城6万石を与え厚遇した。

家康がいかに信蕃を買っていたかわかる。

 

数年後、北条攻めで碓氷峠から上野国へ攻め入った康国は、北条方の石倉城(前橋市石倉)を攻め落とした。

ところがこの城で、なんと康国は非業の最期を遂げる…。

そんな康国の物語をいずれ書きたいと思っています。

 

しかしながら、前橋市の石倉城を訪ねると、城跡らしきところはなにもなく、石碑が小さな公園の片隅にポツリ。

平城だったゆえに、今は周囲が市街地となり、いささか寂しいが仕方なし。

 

さりながら、このような城郭図が示されていて嬉しい。

 

ところがまた。

「おぉっ、近くになんとあの剣の達人・上泉伊勢守信綱の出生地が!」

 

小豪族・上泉城の城主というより兵法家、というより史上最強の剣聖というべきか。

武田信玄の誘いも断り、戦国の世を兵法家として渡り歩く。

将軍、天皇、公家の前でその腕前を披露、「天下一」と絶賛された。

 

柳生石舟斎宗巌も軽くあしらわれ、ついに弟子に。

新陰流といえば柳生だが、開祖はこの伊勢守信綱。

それを柳生が継いだ。

疋田文五郎や神子伊豆、丸目蔵人、松田織部など、数多くの兵法家の弟子を育てた。

 

さて、剣聖・剣豪というと、どうしても宮本武蔵にいきつく。

武蔵はよく闘いよく勝った。

 

 

それに比べ伊勢守信綱、塚原卜伝、柳生宗矩はあまり闘っていない。

できるだけ闘いを回避した「剣の達人」という。

 

でも宗矩の子・柳生十兵衛三巌は隻眼ながらよく闘っているぞ、ドラマでは。

 

「闘わずしていかに勝つか」「無刀取りの術」などが達人たちのめざした極意という。

 

そんな剣聖・上泉信綱の銅像・墓所が西林寺(前橋市上泉)に。

 

またこんな楽しい郷土の冊子が。

 

 

また地元のあちこちに信綱の姿が。

 

こんな自販機や、道路沿いにその名が。

あの(あのが多すぎるか)、黒沢映画「七人の侍」の主役・志村喬の浪人は信綱の姿がモデルという。

 

だが武蔵のように、派手な「闘う様」が伝えられてないと、小説・ドラマにはなかなか登場できない。

 

幕末とて同じこと。

幕末三剣豪の千葉周作・斎藤弥九郎・桃井春蔵の、その上に座していた男谷信友。

しかし「にっこり笑えば人を斬る」の近藤勇、土方、沖田に比べると、ほとんど無名に近い。

 

ともあれ、「剣豪でだれが一番強かったか」は、いつの時代も興味津々。

 

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